原発再稼動が政府主導で実行されようという現今情勢に垣間見えるのは、言わば、開き直った「原子力ムラ」原発推進派が有する運動慣性的猛進性が、かつて軍部が暴走したように習い性的に顕現しているとみえるということだ。
習い性、とは日本人に特有なものとしてある国民的欠点なのだが、残念ながらその理念的評価は文民統制力の希薄さということにつながる。
この国の議会制民主主義というものの本質的な意味の無実化、被選挙代議制により徐々に確実に淘汰されていく民意、などから明白に言えるのは、専ら「多数決原理」でなし崩しに強行される議決権力の、人民によって管理監視されない政策遂行仕組みが、この国をほぼ過半「非民主的」にしている実態において、人は知らぬ間に見知らぬ国の不思議な法体系のもとに誘われているということなのだ。
人民が何事につけ右往左往している有様がこれを証明しているが、今次大震災という重大にして最適な契機を与えられながら、すでに一周年という時間的括りで心理的に遠ざかった過去として扱われている現状からは、「笛吹けど踊らない」日本国為政者権力者たちの保守停滞主義(概して利権既得権に傾斜している)に対し、絶望的にならざるを得ない我々自身を発見するばかりだ。
何故この国の保守主義というものは、日本では本質的に破壊されるべき思潮といえるか。
遡れば明治維新において、歴史的に改変された「近代化」という評価が、根本的な意味での妥当性を欠く跡付けになっている維新後のこの国の歩みから、日本の「近代」及び「現代」は絶えず本質的検証に晒されずに済む実質にはないという見解だ。「
「千年革命」は毛思想の根幹だが、日本国の国情に最も相応しい理念に違いなく、日本では「保守」すべき価値は純粋には検証されたためしがないのであり、そのことが「王政復古」以来の近代日本の混濁した諸断面を形成したのだった。
歴史のダイナミズムからすれば振幅ある揺動ともみえるがそれほど見事ではない。日本の保守主義は筋書き上は伝統主義という風にいえようが、実際はそうではなくわかりやすく言えば天皇制立憲君主国体の護持という意味になる。
この保守目的実体は一体人民の誰に支持されたのかわからない。しかも人民は確実に盲目的にその体制下に組み込まれている。もし保守すべき価値があるなら日本国憲法以外はない。しかも憲法の中の象徴天皇については削除すべきというしかない。但し、民俗学的検証において「天皇と民衆」の観点から学術的に立証される「天皇」愛好、愛惜、についてはなんら情念的忌避などありえようもなく、むしろひとつの無目的化された存在承認という法定化において肯定又は否定されるべきものだと思われる。つまり憲法上の「天皇」については別に明確な注釈をもって峻別しておく必要があるということだ。(中断)