沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩351 再び「現代日本」 2

2012年03月07日 12時40分35秒 | 政治論
 昨今のこの国の右傾化というものは、戦争に関する多くの事柄が戦後世代ないし戦争未体験者の手に渡り、戦争体験者世代が消え行く現状にあって、いよいよ、「戦争」、「軍事」、「翼賛体制」が有する現実的人民的実質を、具体的にリアルに思考し分析する機会から遠ざかることとなっていく。
 逆に言えば、「敗戦」という事実から醸しだされた「敗北感」のリアルな実感とは全く縁のない時代へ移行し、むしろ真逆な「軍拡」傾向へ走り出した有様が見て取れるというわけだ。
 概して、こうした傾向の基本が日米安保であるというのは実に奇妙な話なのだが、一方、「現実的に」こうした日米同盟的基調において「反戦、非戦、護憲」を論う流れに対し、その腰砕けな性格を慮って、いかにも煮え切らないこの国の現代性を嘆かわしく思うのは特殊なことなのか。
 それはともかく、この国が置き去りにし、忘れようとしている「敗戦」という事件の総括は、決してこのまま放置して済むものではなく、勿論これに付随して極東裁判、天皇不訴追、日米同盟、憲法、北方領土、沖縄基地問題、が議論の俎上に上げられなければならず、これらはそれぞれ順次相互に連関しつつ、それぞれの個別的な問題性をも惹起している。
 殊更問題視し特殊化して、恰好な議論材料を提供しようなどとは思わないが、度し難いほどに凋落した近代日本の現代的救済を目論むなら、決して避けようもなく、またこれを置いて他に糸口があるとも思えず、繰り返しアプローチしては、次第にこれらにまつわる物事を、眼に見えて明らかなものにしようというわけだ。
 例えば仮に「南京事件」が、数字的に連合国がでっち上げたものだとして、叩くべきなのはアメリカはじめ連合国となるはずだ。極東裁判の性格を、「復讐裁判」として、現代世界理念的な洗い直しを迫るべく弾劾するのが筋であろう。
 しかし、今更かかる所謂「自虐史観」を覆し、元来た「皇国史観」にとんぼ返りをしたところで、世界はまるで相手にしないに違いない。彼ら軍国主義者の「汚名返上」「名誉挽回」は、対中国という、言わば戦前的「三等国」意識に彩られた偏頗な旧帝国精神の再現としか思えない。
 しかもその行為の結果何が得られるか。反日という、汎アジア的情念の蒸し返しにすぎない。要はこういうことだ。君らがどうしてもアメリカと一緒にアジアの盟主たらんとするなら、アジアを捨て汎世界グローバリズムに則った無国籍軍隊を立ち上げることだ。つまり、大国アメリカに日本列島の守護を委託し、アメリカのいうがまま自衛隊を国軍とし、世界各地の紛争解決を軍事的に実行すること。
 小さな島国ながら後見人アメリカの庇護の下、アジアで中国に対抗しうる唯一の覇権国家と誰もが認めよう。しかし、問題はそのことにはない。これを実現するには当のアメリカが、財政危機を抱えて軍備縮小に大鉈振るわねばならず、日本の守護なんていう、ありえない連携などするはずもなく(日米同盟は軍事同盟たり得ないしろものだ...アメリカは自国の民しか救わない)、恐らく極東の緊張(半島関連の)と同時にアメリカはアジア覇権軍拡競争から手を引くことになる。
 アメリカが北朝鮮を叩けない理由は、北が中露の中立性に依拠して少しもアメリカを脅威と感じない実情があるからだし、対中経済関連の友好関係を更に堅固に構築したいアメリカの外交方針があるからだ。
 日本は?馬鹿なことをやっている。何故か。サンフランシスコ講和条約が大戦の講和以外に戦後世界覇権のシステム作りに利用されたとはいえその有効性は実際上基本的には存在しない。従って、すでに経済復興と其の凋落まで経た日本の戦後体制の基本である、アメリカ占領体制たる日米関係は実質上の不法性を惹起し、「地位協定」にみる非近代的外交関係など、到底現代市民理念に合致しない実態が顕現しており、「法」が「人」を凌駕する矛盾を改善しない限り、日本は現代的には決して救われない人民的境遇にある(オキナワはその最たるものだ)という認識が必要となる。
 かくして講和条約から派生した再軍備抑制条約たる日米安全保障条約はその役目を完全に終え、日本は、自分のことは自分で守る理念の追究を通じて憲法問題という問題を明確に消化することだ。(中断)

詩351 再び「現代日本」 1  

2012年03月06日 08時55分02秒 | 政治論
 人はその晩年に近づく程にいよいよ冥界に因んだ思念に捉えられる傾向にあるのだろうが、死後の世界はあるのか、死んだなら同じく個の思いが残り、目に見える質と内容で存在性を持続するのか、といった、あたりまえの疑問にいくらかは答えを案出するふりくらいはするものだ。
 事実上、「無」という「有」に帰するということを、人は受容しうる気組みにあるが、にもかかわらず真理上は、「空即是色」ならぬ絶対無を受容する器にない。パスカルが、人間の宇宙での在り様を「中間存在」としたのは、いじましい人間の獣性に依拠する「色」が、「涅槃」をうる過程の振幅、ゆらめきを捉えたものだが、こうした実存を関係他者に投資するか否かは、現代がいよいよ不合理な神話的様相を呈し始めた実情から、理性が儚くも「神」たり得ず、パスカルの「賭け」も狂気じみて、恐らくは近代知性が「門前に佇み」黄昏を待つ世俗的忘我を究極した、動物的「日常死」を予定しているという、いわば「悟性の敗北」をもって晩年を消化する傾向へ自然陥落したものと思われる。
 原発再稼動が政府においてその必要性につき言われ始めている。これはつまり「フクシマ」が一地方の限定的カタストロフィとみなされ始めたことを意味する。
 ひとつには、電力需給内容検証の不透明さが電力会社の言い分を鵜呑みにさせる傾向に歯止めがかからず、彼らの利潤追求の、統制の効かない暴走によって、国に「最悪の選択」を迫っているという現状だ。
 つまり日本型資本主義の凋落は、自浄能力や内面的リストラを度外視して自己主張する、無恥な「非倫理性」を契機として、どこまでも「いけずうずうしく」利己的に「自由主義経済」の「厚かましい」赤裸々な獣性に墜落したということになる。
 こうした予兆は、すでにこの世紀に入っていよいよ顕著になっていたし、「フクシマ」でその最悪な実態を晒すことになったにもかかわらず、消え行く民主政権は最後の最後まで現状悪を何気に維持しようとして、見えざる脅威、国家的滅亡の夢を打ち消そうとする。
 それはある意味政治的効果を挙げているかもしれないが、所詮結果的大本営発表となり、どこかしらぬ「玉虫色」の近代性が、埒もなく彷徨する実情を止めようもない事態だ。
 我々人民は、すでにこの国の「議会制民主主義」が、実質性を喪った虚妄の政治理念であることを骨身にしみてわかってしまったのだが、実は近代日本の端緒においてその因源を作ってしまっていたので、彼らの「後戻りできない」事情もわからぬでもなく、ここでもただ「絶望」だけが残されているのである。
 人心における「絶望」と、社会的「孤独」と、環境の「不毛性」が「テロリズム」の原基だということは了解されよう。つまり、アメリカ型資本主義が横行すれば確実にテロは増大する。
 日本がオウムのテロを何ら検証せず、個別的に特殊化して抹殺しようと20年近くかけたが、実はオウム型テロは周知の如く既に個人の単位で頻発しており、これがある種の組織的集団に吸収されない保証はどこにもなく、サラエボ事件がごく弱年の青年たちで実行され、彼らを束ねたのが「黒手組」なるフリーメイソンテロ組織だったことは第一次大戦すら招来した史実だ。
 理論武装しない赤裸々な社会的憤懣が、無力に無差別無目的殺戮を単一に繰返す状況にある現代日本で、フリーメイソン的テロ組織の組織化が実行されれば、恐らく取り返しのつかない社会不安を惹起し「暗殺」が日常化するであろう。「爆弾テロ」の場合一般市民を巻き添えにすることは目に見えているし、「対岸の火事」だった中東、アフリカ、イギリスの惨状を目の当たりにする危険性は刻々と迫ってきている。
 これは脅威を煽る意図でなく、とりわけて近来のこの政権ないし政治環境がいよいよ劣化し目に見えて非理念的傾向にあり、その伝で、あれほど沖縄はじめ司法が騒いだ高校教科書裁判結果を度外視する文科省方針など到底許容できないし、「フクシマ」と「オキナワ」で行われている政治的不作為、機能不全実態、消費増税、TPP、いずれも官僚主導の事務的機械的書類社会の民的浸潤がいたるところでむき出しになり、今やこの国は、完全にこの国の民と敵対する位置関係を構築する歩みとなっている。(中断)

詩350 沖縄の「出エジプト記」 13

2012年03月02日 08時00分07秒 | 政治論
 歴史とは史料だ、といった歴史家がいたが、歴史とは現代史だという歴史家もいた。ヘーゲルによれば歴史は哲学的課題そのものだとするが、近代的合理史観からすれば結局「仮定」ないし「暫定的処理」において歴史を抽象する以外にはなんら学術的手法がないものとされるらしい。歴史学の限界ともいえる。自然科学がその発達の歴史においてしばしばコペルニクス的転回をみせていることは周知の通りである。ガリレオの地動説が宗教裁判によって反動的に否定されたのは、およそ、学術的真理の有する絶対性が、人知の範囲で許容されることの困難さを示しているにすぎず、「権威」「神」「権力」のいかなる意向にも、「人間」が、「真理」を盾に闘う必要性を持たないことを了解すれば足りることだ。確かに「南京事件」は様々な証言、目撃談、等において正反対な極論を生み出し、史実的リアリテイに止めを刺す決定的な証拠を示し得ていない。曰く、ヒロシマナガサキ原爆の30万死亡数に合わせたもの、曰く、ナチス犯罪と同等な「犯罪性」を付与するための連合国創作、など、今にして言えばさながら「伝説と奇談」とでもいうべき様相を呈した議論が沸き起こった。河村某があるいは都知事が「南京事件」といわれる「虐殺事件」は事実上なかったのではないか、という疑問を呈したのは勿論理由のないことではない。しかし何故「南京事件」だけが彼らの指摘として挙げられたのか。何故「自虐史観」と目される東京裁判本体の批判に付随する論難としてでないのか。名古屋市長が友好都市南京使節団にこういったのは、相手が中国だから言ったのである。都知事も同断だ。何故彼らは中国の国情を度外視していわずもがなの歴史的事件を特定的に言い募ったのか、彼らの中の中国に対する「仮想敵国」視がそういわせたのだ。そして特定国を「敵国」視する背景に彼らの国防上の思い入れがある。しかし少しだけ退いて見ると、市長の、史実上の加害国意識と同時に被害事実への否定的解消意図が垣間見える。だが結果は中国ないし南京市の尋常ならぬ反感を買っただけだった。我々は、仮に彼らが、巷間しばしば散見する学術的見解のひとつを示しただけだと言い張っても、そこに立ち現れる旧日本軍またはおよそ軍事的行為への、是認ないし積極的肯定の姿勢を見ないわけには行かない。勿論彼らの大半は「軍国主義」を容認しているし、その再現を何気に待望している、と思われる(こうした思潮のアリバイはすでにどこにもない)。沖縄県知事が首里城下32軍司令部壕跡の説明文案から「慰安婦」と「日本軍による住民虐殺」のくだりを削除した行為は、明らかに、「住民を守らない」と言われた帝国軍隊の今更ながらの擁護という意味にしかならない。(時期はどうか知らぬが知事の政府関係との密談が何を変えていくか注視すべきだ)ほかならぬ沖縄県人の仲井真氏が断固として削除方針を変えないその姿勢には並々ならぬものを感じる。沖縄振興策の見返りが史実改竄の方向へ、つまりは教育文化言論への政治介入という実質へ向かったとしかいえない。この知事の、あるいは地方権力者の露骨化してきた国家翼賛傾向は警戒すべき事態と捉える必要がある。大阪の独裁者が大向こうをうならせ始めてからにわかにこうした傾向が顕著になってきた。いわば時宜を得たナショナリズムがもぐらたたきのごとくそっちこっちに意匠を違えて出現する気配である。(中断)