沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩352 日本という国 5

2012年03月26日 09時24分46秒 | 政治論
 日本で単独に、単一な名称としての「オキナワ」である琉球沖縄は、それ故に「独立国家」ないし「独立社会」の方向性を有していたのだが、戦後66年を閲して、現代日本の一面特殊な一地方単位として、列島南方を弧状になびく島嶼の集合という成り立ちにて存在性を醸すことになる。「フクシマ」で大震災と付随して原発暴発事件が突発し世界中が注視する中、1年経過してさえ未だに実質的収束には到ってないにもかかわらず政府、財界、官僚、一部学界は、停止中原発の「再稼動」、原発技術の輸出、あわよくば新設さえ目論んでいるという、現代日本の実態なのであるが、ここに生じている震災前への逆戻りという事態は、人間「不断な向上心」と「良識への覚醒」に係る理性機能が途絶するという、甚だ病的な、暗澹たる精神性を意味していると思われるのだが、こういうことにはこの国のインテリジェンスは以前のように激しく反応するということもなくなったのだろうか。それとも一般的に各自がおのおのの胸にでもしまっておく仕儀になったのだろうか。「オキナワ」のことを声を大にして叫んでもこの国は現今選挙制度、議会制民主主義、ないし間接民主主義にあっては聞く耳を持たないに違いない。「オキナワ」はやはり日本にあっては単一の単独の自足しうる社会性のゆえに、ついにこの国の一般的な従属的地方自治同然な並行的生存は無理なのではないか。そして本土並みという質を糾すとどうやら返還時のそれとは意味を異にする具合になっているようだ。彼らの言いくるめは別として、米軍基地が撤退しない限り「オキナワ」の自治権は生じない。何故なら日米地位協定は純然たる治外法権を戦後一貫して守護し国もこれを承認して止まなかった。そして日米安保は沖縄を米軍軍用の不動産予定地に位置づけて退かない。自己所有の土地を無理強いにあるいはしぶしぶ軍用地に提供し借地料をもってあがなわれたとしても裁量権が自己以外に法的に収用されているものを所有権とはいうまい。自由裁量にない土地を金銭的に代用されてもその不公平な権利関係にあっては代用費など不労所得という虚利であり彼の実感生活には決して馴染まないだろう。つまり「本土」が言う基地恩恵は、獣的に追求された高度な経済成長とバブルとその破綻という彼らの運命同様、悲嘆の具にこそなれ充足する価値の内容には程遠いのだ。この不可及な状態にあるのが沖縄人のいかんともしがたい不幸であり本土には決して了解されない事情である。いずれにしても当時10代前後の幼少時降りかかった「沖縄戦」の傷跡は、実際の傷とともに現在も高齢の人たちを苦しめ続けているということも本土の好戦家は知らねばならない、というのは、この苦痛から訴える「非戦」の意思は何にも換え難い真剣さに拠っているからだ。この経験者の人たちに向かって新基地を造らせろという現代アメリカと日本の為政者たちは鬼畜に同じい、と思わざるを得ない。単に想像力の欠如では収まらない。人が、他者の尊厳を実感し、それの前に一切の欲得を恥じるということが起こるはずなのに、彼らに一歩でも譲歩する人間性はないし、先島、八重山にまでその鉄の爪を伸ばす性懲りもない戦後民主主義破綻現象は返す返すも口惜しい有様である。(中断)