人はその晩年に近づく程にいよいよ冥界に因んだ思念に捉えられる傾向にあるのだろうが、死後の世界はあるのか、死んだなら同じく個の思いが残り、目に見える質と内容で存在性を持続するのか、といった、あたりまえの疑問にいくらかは答えを案出するふりくらいはするものだ。
事実上、「無」という「有」に帰するということを、人は受容しうる気組みにあるが、にもかかわらず真理上は、「空即是色」ならぬ絶対無を受容する器にない。パスカルが、人間の宇宙での在り様を「中間存在」としたのは、いじましい人間の獣性に依拠する「色」が、「涅槃」をうる過程の振幅、ゆらめきを捉えたものだが、こうした実存を関係他者に投資するか否かは、現代がいよいよ不合理な神話的様相を呈し始めた実情から、理性が儚くも「神」たり得ず、パスカルの「賭け」も狂気じみて、恐らくは近代知性が「門前に佇み」黄昏を待つ世俗的忘我を究極した、動物的「日常死」を予定しているという、いわば「悟性の敗北」をもって晩年を消化する傾向へ自然陥落したものと思われる。
原発再稼動が政府においてその必要性につき言われ始めている。これはつまり「フクシマ」が一地方の限定的カタストロフィとみなされ始めたことを意味する。
ひとつには、電力需給内容検証の不透明さが電力会社の言い分を鵜呑みにさせる傾向に歯止めがかからず、彼らの利潤追求の、統制の効かない暴走によって、国に「最悪の選択」を迫っているという現状だ。
つまり日本型資本主義の凋落は、自浄能力や内面的リストラを度外視して自己主張する、無恥な「非倫理性」を契機として、どこまでも「いけずうずうしく」利己的に「自由主義経済」の「厚かましい」赤裸々な獣性に墜落したということになる。
こうした予兆は、すでにこの世紀に入っていよいよ顕著になっていたし、「フクシマ」でその最悪な実態を晒すことになったにもかかわらず、消え行く民主政権は最後の最後まで現状悪を何気に維持しようとして、見えざる脅威、国家的滅亡の夢を打ち消そうとする。
それはある意味政治的効果を挙げているかもしれないが、所詮結果的大本営発表となり、どこかしらぬ「玉虫色」の近代性が、埒もなく彷徨する実情を止めようもない事態だ。
我々人民は、すでにこの国の「議会制民主主義」が、実質性を喪った虚妄の政治理念であることを骨身にしみてわかってしまったのだが、実は近代日本の端緒においてその因源を作ってしまっていたので、彼らの「後戻りできない」事情もわからぬでもなく、ここでもただ「絶望」だけが残されているのである。
人心における「絶望」と、社会的「孤独」と、環境の「不毛性」が「テロリズム」の原基だということは了解されよう。つまり、アメリカ型資本主義が横行すれば確実にテロは増大する。
日本がオウムのテロを何ら検証せず、個別的に特殊化して抹殺しようと20年近くかけたが、実はオウム型テロは周知の如く既に個人の単位で頻発しており、これがある種の組織的集団に吸収されない保証はどこにもなく、サラエボ事件がごく弱年の青年たちで実行され、彼らを束ねたのが「黒手組」なるフリーメイソンテロ組織だったことは第一次大戦すら招来した史実だ。
理論武装しない赤裸々な社会的憤懣が、無力に無差別無目的殺戮を単一に繰返す状況にある現代日本で、フリーメイソン的テロ組織の組織化が実行されれば、恐らく取り返しのつかない社会不安を惹起し「暗殺」が日常化するであろう。「爆弾テロ」の場合一般市民を巻き添えにすることは目に見えているし、「対岸の火事」だった中東、アフリカ、イギリスの惨状を目の当たりにする危険性は刻々と迫ってきている。
これは脅威を煽る意図でなく、とりわけて近来のこの政権ないし政治環境がいよいよ劣化し目に見えて非理念的傾向にあり、その伝で、あれほど沖縄はじめ司法が騒いだ高校教科書裁判結果を度外視する文科省方針など到底許容できないし、「フクシマ」と「オキナワ」で行われている政治的不作為、機能不全実態、消費増税、TPP、いずれも官僚主導の事務的機械的書類社会の民的浸潤がいたるところでむき出しになり、今やこの国は、完全にこの国の民と敵対する位置関係を構築する歩みとなっている。(中断)