大阪に行ってきました。

2014年11月11日 | 
日曜日から宅建協会佐久支部佐久平地区主催の「ユニバーサルスタジオと梅田スカイビル空中庭園展望台 大阪みなみの旅」に参加。

 コースを見た瞬間「行きたい!!」って。

 これっ絶対男性の選んだ物ではないもん。

 温泉に入って、ひょっとしてコンパニオンがいたりするっていうの、女性人には人気ないのよね。

 そんな訳で参加者の三分の一は女性。

 ただただ大阪までは遠いから、5時半集合。嬉しくてか、寝坊してはいけないのかで・・・・すごい睡眠不足。

 白々と明けてくる空・・・・それが珍しいのなんのって。朝焼けのオレンジ色の雲がうっすらとピンク色に変わっていく。山々がグレーの濃淡で稜線を描き、その稜線がいくつもいくつも続くのです。

 その稜線にベールのような雲がたなびき、今日の天気の先行きの怪しさを予感させるのでした。

 朝食の足しにするがごとしに、幹事の用意した菓子とおつまみを食し・・・・もちろんバス旅行につきもののビールもね。

 山梨との峠付近は唐松も黄金色から赤茶色にそして落葉していて・・・・・そして季節は逆戻りになって紅葉を眺めつつ、一路大阪に。

 梅田のスカイビル空中庭園・・・・たしかテレビで見た記憶が・・・・行くことがあるなんて思ってもみなかったわ。

 空中庭園というからには、庭園・・・植木なんて想像してしまうけれどちがうのよね。まあなんというか展望台から見える範囲すべてが庭園なんだわね。

 霧ぶるような天気で視界が効かないから、大きな庭園も見えなかったわ(笑)

 どちらにしても私はこれを作った職人たちをエライと思うのです。

 大阪の土地勘はぜんぜんないけれど、地名や通りは「歌」でインプットされているらしい。

 地図をもらって夕食前に散策に出発。

 たしかに・・・・たしかに・・・食い倒れの街らしい。

 ここにきたら食べなきゃあは、たこ焼きかお好み焼きか。

 1皿買って、路上で1個ずついただきましたよ。味わうというより熱い・熱い、ヤケドしそうになっちゃいました。

 宴会場はお鮨屋さんの4階。お腹を空かすべく階段を上って行ったら、3階のところで???、これって火災になったらどうなのかしらね、と案じたのでした。イス置き場になっているのですね。私たちは乗り越えていきましたけど。

 まあーほとんどの方はエレベーターだから。それでもねえ。

 料理はとっても美味しいんだけど、次にいきたいから、最後のごはんは味見だけでパス、関西は薄味かと思いや、赤だしも釜飯も辛く感じたのでした。

 その時はぜんぜん気がつきませんでした・・・・お鮨屋さんなのに鮨が出なかったって。

 女性の情報収集は凄い・・・・立ち飲みというか立食のイタリアンのお店、東京にもあるのだとか。知らないのは私だけかも。
 
 そこで二次会、サラダにピザにパスタにはじまり珍しい物を6人でシェア。絶対量はそれほどではないところがうれしい。

 おいしいワインもどんどんっていうところで、みんな盛り上がったのでした。

 カラオケに行く皆さんと別れて、睡眠不足を解消すべくホテルに戻ったのでした。

                              依田美恵子

軽井沢・佐久で建てる外断熱・省エネ住宅 中島木材の家                          


【 中島木材のホームページは こちら


ブログランキングに参加しています。ポチっとお願いします。
ポチットお願い!にほんブログ村 住まいブログへ
にほんブログ村 住まいブログ
ブログランキング・にほんブログ<br>
<br>
<br>
<br>
<br>
<br>

</div>
</div>
<!-- /entry-body -->

  <!-- entry-bottom -->
  <div class=
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ありがとうございました。

2014年11月08日 | 家族
本日娘の七七忌を済ませ納骨をいたしました。

 多くの皆様にお悔みと励ましの言葉をいただきましたこと、本当に感謝申し上げます。ありがとうございました。

 今日お経を聞きながら涙がとまりませんでした。心は空っぽなのになぜか涙は意に反してしまったのです。

 それを見ていたかのように、ご住職は最後の法話で話されました。

 1歩でも前にと。

 もし自分があちらに行った時、残された人たちが泣いていたらと・・・・・。

 分かってはいるんですが・・・・・。

 でも納骨してしまうことに耐えられるかと思っていましたが、それでも何とか平常心でいられたということは、まさしく一歩

 前進したということかもしれません。

 娘が天国で楽しくやっているよ、と思える日も必ずくることを信じて前に進んでいきたいと思います。

 こんなプライベートすぎる内容にお付き合いをいただきありがとうございました。

 明日からは元気なお話をアップしていきたいと思います。

 それではおやすみなさい。
                              依田美恵子

軽井沢・佐久で建てる外断熱・省エネ住宅 中島木材の家                          


【 中島木材のホームページは こちら


ブログランキングに参加しています。ポチっとお願いします。
ポチットお願い!にほんブログ村 住まいブログへ
にほんブログ村 住まいブログ
ブログランキング・にほんブログ<br>
<br>
<br>
<br>

</div>
</div>
<!-- /entry-body -->

  <!-- entry-bottom -->
  <div class=
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

相撲に『引き分け」って、あるの?

2014年11月06日 | 長野労基のひと口コラム
 我が家の両親も相撲と黄門さんが大好きです。

 番付表を眺めていて、あまりに外国力士が多くてびっくりしたのも一昔前のこと。今国技を支えてくれているのは彼らなのかもしれません。

 11月の長野労基のひと口コラムは「相撲に『引き分け』って、あるの?」でした。

 以下引用です。

 十両以上の取組において、概ね4分を超えても勝負がつかず膠着状態になった時、審判長や行司の判断で、一旦中断させる場合があります。

 それを「水入り」といい、短時間の休憩後、水入り前と同じ体勢で再開されます。

 「水入り」になる相撲は稀にあり、再開後勝負がつくのがほとんどですが、再開されても勝負がつかず、2度目の「水入り」になることもあり得る

 訳で、その場合は審判委員協議の上、後続の取組2番を先にやらせて「二番後取り直し」の措置がとられることになっています。

 「取り直し」ですから、最初の立会からはじめられることになります。

 2番後の「取り直し」においても、なかなか勝負がつかず、再度「二番後取り直し」の必要性が生じた場合、「引き分け」にすることになっています。

 昭和49年9月場所11日目において、三重ノ海-二子岳戦で「引き分けむがあり、それ以降40年以上「引き分け」はありません。

 以上引用終わり

 あったんですね。

 相撲をじっくり観戦なんて、まだまだ先になりそうで、力士の名前が新鮮です。
                                    依田美恵子

軽井沢・佐久で建てる外断熱・省エネ住宅 中島木材の家                          


【 中島木材のホームページは こちら


ブログランキングに参加しています。ポチっとお願いします。
ポチットお願い!にほんブログ村 住まいブログへ
にほんブログ村 住まいブログ
ブログランキング・にほんブログ<br>
<br>
<br>
<br>

</div>
</div>
<!-- /entry-body -->

  <!-- entry-bottom -->
  <div class=
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お手玉づくり

2014年11月05日 | 家族
夫の妹がお手玉を持参してきてくれた。母が30年前に作ってくれたと、作った当人の記憶はないが、布は自分の着物だという。

 それとバザーと購入したという、ウール地の大ぶりな物。

 手にした瞬間「おひとつ石落して♪~♪・お二つ石落して♪~♪・お三つ石落して」とお手玉の遊び歌が出てきて、手も反応した。

 半世紀以上前の記憶がよみがえった。ところでなんで「石」なんだろう?

 2つを交互に挙げてとったりも。

 遊びには流行があるから、私の年代ではそれほど熱中した記憶はないが、2歳上の隣のお姉さんと遊んだ記憶がある。

 母が縫ってくれたお手玉の赤い柄までが蘇ってきた。

 けい子さんは器用に3つを挙げた。

 孫たちが即反応した。

 すなわちお手玉を作らねばならないということだ。

 お手玉にするなら、あの縮緬の羽織と思い立ち、先日処分を保留しておいた、仕付けもとってない羽織をほどき始めた。

 母と染物屋に出かけて、白生地を染めた日のことがこれも鮮やかによみがえる。

 着物は縫ったが、とうてい羽織まで到達しなかった私は、どこがどうなっているのか理解できないままに解きほどいていく。

 これを仕立ててくれたのは、母なのか伯母なのか覚えがないが、丁寧な針目に、自分が自給自足の世界からほど遠いところにいることを感じる。

 祖母は12~13歳で母を亡くし、その母が縫いかけたままの妹の筒袖の着物を仕立てるべく、縫いかけの片方の袖をほどいてみた、という話

 も一緒に思い出したのだった。

 明治20年前後に生まれた祖母は、そこまでの生活能力を持っていたということなのだ。

 織ったり、縫ったりすることもせずに、山ほどの衣類を持てる私・・・・・これこそ地球温暖化の原因かもね(笑)

 妹に布の縦と横の裁断に気を付けてと言われていたのに、どっちが横なのかしらと悩む私。

 まあひとつ縫ってみて様子をみよう。なんたって布地は有り余るほどあるのだから。中はもちろん小豆で。

 
 連休の2日目は窓拭き65枚やっつけた。3日目は20枚それでもまだ終わらない。

 家にいると仕事が見えすぎて休まらない。

 ちーちゃんと約束していた、紅葉を見に行くことにした。

 軽井沢の紅葉は1週間前だったら最高だったかもしれないが、それでも十分美しい。

 ちーちゃんは今学校の中庭のそうじ当番で、毎日桜の落葉で掃除が大変なのだという。

 桜の葉の美しさより、そちらに頭がいっている様子で笑ってしまった。

依田美恵子

軽井沢・佐久で建てる外断熱・省エネ住宅 中島木材の家                          


【 中島木材のホームページは こちら


ブログランキングに参加しています。ポチっとお願いします。
ポチットお願い!にほんブログ村 住まいブログへ
にほんブログ村 住まいブログ
ブログランキング・にほんブログ<br>
<br>
 。<br>

</div>
</div>
<!-- /entry-body -->

  <!-- entry-bottom -->
  <div class=
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ママとお弁当

2014年11月04日 | 家族
納骨を前にお別れの会を週末開いた。ちーちゃんがメニュー選びに始まり、ママの味になっているか味見まで担当した。

 料理はすべて手ずくりにこだわった。

 娘のために・・・・というより・・・ちーちゃんに母親のことみんながとっても好きだったことを覚えていてほしいから。

 あいさつを始めた夫の声が涙声になった。「もうそのあたりにしたら」と隣席の私は袖をひいた。

 四十九日を過ぎて、私も少しは落ち着いてきたかもしれない。

 線香をあげながら、「誰もが一度は行く道、いずれは私も行く道」と娘に呼びかけることができるようになった。

 パパが勤務地に帰った昨夜、読み聞かせしている私の方が先にダウンした。

 ちーちゃん、社会見学の時のお弁当のメニュー考えてね、と消灯したのだったが・・・・・。

 なんとなく雰囲気が変わった。

 ママー・ママーと泣き始めた・・・・・いいまでママといって泣くことがなかったというより泣けないちーちゃんを案じていたのだったが。

 お弁当にはママの思い出がいっぱいらしい。

 だから先日のお弁当の時もそんな感じがしていたのだった。

 ちーちゃん泣いてもいいんだよ、泣きなさい、そう言葉をかけることしかできませんでした。

 ちーちゃんがこの先、どれほどママを欲する時があるでしょうか、そして流す涙を思いました。

 私がどんなに頑張ってもママの代わりはできません、ともに生きていくことしか。

 せめてママに負けないお弁当をつくりましょうね。

 今朝パパとちーちゃんのお部屋に、ちーちゃんのマフラーを取りに入ったたら、「ママ大好き」と書かれたカードがママの写真に添えられていました。

 私の心の蓋がまた開いてしまうのでした。

                                         依田美恵子

軽井沢・佐久で建てる外断熱・省エネ住宅 中島木材の家                          


【 中島木材のホームページは こちら


ブログランキングに参加しています。ポチっとお願いします。
ポチットお願い!にほんブログ村 住まいブログへ
にほんブログ村 住まいブログ
ブログランキング・にほんブログ<br>
<br>
 。<br>

</div>
</div>
<!-- /entry-body -->

  <!-- entry-bottom -->
  <div class=
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする