競泳の「バタフライ」は、日本選手がきっかけです

2020年04月02日 | 長野労基のひと口コラム

ご当地梅が満開です、そこに雪でした。

さすがにすぐ溶けてきました。

もう4月になりましたので、季節の進むのが早い、早いというのは止めにしましょう。

こぶしも、そしてもう桜のつぼみがいい感じです。

心静かにお花を愛でましょう。

そう・・・・不安とあせりの日々ですもの。

長野労基の2020年4月の「ひと口コラム」は「競泳の『バタフライ』は、日本選手がきっかけです」

通常ならオリンピックに向けてムードを上げていく時期ですものね。

以下引用です。

昭和20年代前半まで競泳と言えば、自由形、平泳ぎ、そして背泳ぎでした。

戦前ですが、平泳ぎについて「うつ伏せで左右の手足の動きが対照的な泳法と定められていました。

そのため、アムステルダム五輪(昭和3年)では、独のラーデマッヘル選手が、今のバタフライに似た手の掻きと平泳ぎの足の掻きを組み合わせて平泳ぎに出場し、銀メダルを獲得しています。

その後、この泳法による平泳ぎ選手が多くなり、日本の長沢二郎選手は、ヘルシンキ五輪のとき(昭和27年)、ひざを痛めていて、カエル足の掻きができないこともあって、上下に水を蹴る独自のキック泳法で200メートル平泳ぎに出場しました(結果は6位)。

その後昭和29年、国際水泳連盟は平泳ぎから分離する形で、バタフライを独立種目として扱うようになり、長沢選手のキックはドルフィンキックと名付けられました。

長沢選手は当時の200メートルバタフライの世界記録を何回も更新し、その年、日本スポーツ大賞を受賞しています。

昭和31年のメルボルン五輪からバタフライが正式競技となり、ドルフィンキックを向上させた石本隆選手が、銀メダルを獲得しています。

なお、長沢選手は昭和39年東京五輪の競泳日本チームのコーチを務められ、平成5年には、国際水泳殿堂入りしています。

(平成22年没78歳)

以上引用終わり

私のオリンピックは昭和35年のローマオリンピック。

ローマから届いた1枚の絵葉書。父宛だったけど、私にとっての初のエアメールでした。

どれだけ眺めたことでしょう。

どれだけ想像をかきたてられたことでしょう。

私にとってアメリカ以外の初めて外国だったはずです。

このオリンピックはラジオで聞いた記憶があります。

ちーちゃんは今年は受験生ですので、来年なら心置きなくオリンピックを楽しめるかもしれません、と良い方に解釈しています。

アスリートも準備する人も携わるすべての人にとって、大変な延期です。

なんとかこの困難を乗り越えましょう。

依田 美恵子  

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