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Grey Gardensの登場人物達 その2 - リトル・イーディ -

2009-06-06 16:53:12 | Michael 09 Grey Gardens
ミュージカル「Grey Gardens」の登場人物、今回は、2人のイーディのもう1人、娘の方のイーディをご紹介致します。(写真は、若き日のイーディです。なかなかの美人さんでしょう?お母さんのイーディスも、若い頃はすっごい美女だったんですよ!)

イーディの本名は、Edith Bouvier Beale といい、1917年11月7日にニューヨークで、法律家であるPhelan Bealeとその妻のEdith Ewing Bouvierの間に唯一の娘として生まれ、弟が2人いました。
イーディが幼かった頃、母のイーディスは、パートナーを雇い、小さな劇場や個人のパーティ等で歌を披露していました。1931年、父親のフェランが家族と別居したため、収入のない35歳のイーディスは、実家に頼って生活をすることになりました。

イーディは、1936年の1月1日、社交界にデビューし、地元イーストハンプトンにある社交クラブ、Maidstone Clubのメンバーになりました。
若き日のイーディは、ニューヨークやパームビーチのデパートで、初のファッションモデルとして活躍しました。後に、彼女は、実業家のJ. Paul Gettyとつき合ったこともあったし、Joe Kennedy, Jr.と婚約していたこともあったと述懐しています。

1947年から1952年まで、イーディは、名声とあわよくば生涯の伴侶を見つけるべく、マンハッタンのBarbizon Hotel for Womenで暮らしていました。ドキュメンタリー映画の中のインタビューで、彼女は、「きちんとした生活と天秤座生まれの男性を捜していた。自分は、自分とは愛称の悪い射手座の男性ばかりに興味を持っていた。タイミング悪くニューヨークに『着陸』してしまったので、楽しい時を過ごすことが出来なかった」と語っています。また同じくドキュメンタリーの中で、彼女は、母親に向かって、「ここに戻ってきたせいで、マックス・ゴードン(有名なプロデューサー)との大きなチャンスを逃してしまった」と文句を言っていました。

イーディの死後、住居管理者となった甥の手元に残った彼女の日記や手紙によれば、彼女は、トルーマン大統領の下で内務長官を務めていたJulius Albert Krugと不倫の仲だったそうで、その関係は、2009年公開の伝記映画の中でも描かれているそうです。ドキュメンタリーの中でも、母親のイーディスが、彼女に向かって「あの既婚者の男は、お前に何のチャンスもくれなかったじゃないの」と、Krugとの関係をほのめかしています。

1952年7月2日、イーディは、母と共に暮らすために、Grey Gardensに戻ってきました。1980年に彼女は、甥に、「祖父は亡くなる時に、65,000ドルの信託を残したが、伯父のジャックは、その信託を自分の娘達のために使うことしか考えておらず、実際にそうした。だから、彼が、母の面倒をみるべきだ」と書き送りました。実際のところ、母のイーディスが生活費として受け取っていたのは毎月わずか300ドルのみで、母娘は、ティファニーのコレクションを少しずつ売って生活費を得ていました。

1963年に長年母娘の世話をしてきたTom 'Tex' Loganが亡くなりました。その後、1968年に泥棒に入られて以降、2人は、世間から孤立して暮らすようになり、ますます生活に困窮するようになっていきました。
1977年2月に母親のイーディスが亡くなった後、60歳のイーディは、1978年1月にマンハッタンのReno Sweeneyでショーを8回行いましたが、客の入りは悪く、「愚かさの公然陳列でしかない」と酷評されたそうです。

母の死後、グレイ・ガーデンズで2年間暮らしたイーディは、1979年に22万ドルで屋敷を手放しました。その後、サザンプトンの小さなレンタル・コテージやニューヨークのアパートで暮らした後、彼女は、フロリダへと移り住み、1990年代半ばには一時期カナダのモントリオールで過ごしました。
1997年にカリフォルニア州オークランドの親戚の下で暮らした彼女は、同年の秋には、再びフロリダへと戻り、以来、外界とは遮断された静かな生活の中で、詩を書いたり、友人やファンと手紙のやり取りをして過ごしました。84歳で亡くなる間際まで、毎日の水泳を欠かさなかったそうです。

2002年1月14日、アパートの自室で、イーディの遺体が発見されました。死後5日ほどが経過しており、死因は心臓発作でした。彼女は火葬され、葬儀はイーストハンプトンのカトリック教会で営まれました。遺族は、甥が3人と姪が1人でした。
彼女は、イーストハンプトンで眠る母のとなりには埋葬されたくないと望んでいたそうで、遺灰を大西洋に撒いてほしいと希望していたのですが、遺族は、ロングアイランドのLocust Valley Cemeteryにある彼女の弟のとなりに埋葬しました。


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