goo blog サービス終了のお知らせ 

塚田盛彦のつれづれなるままにサッカー

世界中で親しまれているサッカー。このサッカーをフィルターとして、人間社会の構造に迫っていきたいと思います。

文春新書「新・戦争論」より

2017-12-25 14:21:23 | 日記
 文春新書から刊行されている佐藤勝、池上彰両氏の対談集である「新・戦争論」

 この73ページにおいて

 「マルクス主義では本来、国家は死滅すべきものだとなっているのに、どうしてソビエト国家ができたのか」
 「レーニンは、これは国家だはなく半国家であると言いました」

 という記述があります。

 僕はドストエフスキー、チェホフ、トルストイ、そしてツルゲーネフなど来夏のワールドカップに向けて、ロシアを代表する作家の本を読みたいなと思うだけで、まだ実行に移せてません。

 その一方でこの一文を読むだけで

 「世界最も権威を主張する国が、今現在は国家の体があるのだろうか」
 「国家は死滅すべきと思う人物が過去にいた国で、国家間で最高の舞台であるワールドカップが開催されるとは」

 という思いを抱いたわけです。

 ロシアは代表選手がロシア・リーグでプレイし、2010年の南アフリカのように開催国でありながら16強進出は相当難しいと指摘されています。

 レーニンはつまり

 「国家は廃棄されるべき」

 と語ったと佐藤氏は述べていますが、ロシア代表がファースト・ラウンドで敗退すれば、ある意味国家はその誇りを失うのか、というテーゼが生じる気がします。

 ウクライナはロシア語で片田舎を指すそうですが、ウクライナ代表も2012年欧州選手権以降、政治的体制が尾を引く形で難しい状態に追い込まれています。

 イタリア語ではプロビンチャ
 フランス語ではプロヴァンス

 が地方を意味しますが、この優雅な響きとは異なり、ウクライナの片田舎という響きは哀愁が感じられます。

 果たしてクリミア、南オセチア、ジョージア、そしてウクライナと周辺諸国の政治状況をどう顧みながら、来夏のワールドカップを開くのか、ロシアは進路が難しいように思います。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 川崎フロンターレ、再度大久... | トップ | 日本でも「アノ」論争は起き... »

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。

日記」カテゴリの最新記事