「日本文学の革命」の日々

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電子同人雑誌の可能性 202 「コンピュータの本質―関数と西洋文明」

2019-09-11 06:19:35 | 日本文学の革命
これから「関数と西洋文明」という表題でコンピュータの本質について書いてゆくが、はっきりいって自信がない。なにしろ数学なんて大の苦手で生きてきたし、コンピュータのテクノロジーもたいして詳しくない。そんな人間が関数やコンピュータの本質について書こうというのだから、書くこと自体がそもそもの間違いなんじゃないかと自分でも思えてくる。しかしこれはこれから書いてゆく最終章「電子同人雑誌とそのネットワーク」の前振りとして是非とも必要となるので、仕方なく書いてゆくというのが本当のところである。

また僕の性格として絶対を主張してくるもの、こちらを強制的に洗脳してくるほど絶対的であろうとするものに対しては、ついつい反撥してしまうところがある。北朝鮮に生きていて金正恩がどんなに超絶に偉大だと聞かされても「あのデブの若造が…? 冗談は髪型だけにしてほしい」くらいのことは言ってしまいそうで、「おまえ!今将軍様のことをデブだ若造だと言ったな!髪型までバカにしたな!コイツを強制収容所にたたき込め!公開処刑にしろ!」とたちまち粛清されてしまうタイプの人間なのである。前に人間の諸感覚がコンピュータに統合されてゆく「仮想現実」について書いたときも、コンピュータは人間の感覚を支配するほど絶対的なんだということで、ついつい皮肉やジョークの連発となり、さんざんに茶化してしまった。今回もそれと同じことで絶対を主張するものに対しての茶化しやうっぷん晴らしという程度であり、前振りとしての効果さえあればいいので、気楽に書いてゆこう。

シュペングラーによれば西洋数学の中心にあるものは「関数」なのだという。シュペングラーが生きた20世紀前半は「文化相対主義」が起こった時代で、それまで西洋文明こそが絶対とされていたのを見直し、世界の諸文明にも独自の価値があるという思想が起こった。トインビーやマックス・ウェーバーなどがその代表でシュペングラーもその一人なのだが、彼に言わせると他文明の数学と比較して西洋独特の「数」となったものこそ「関数」なのだそうだ。

前に書いたことだが数学とは一種の魔術であり、世界の根本法則を見い出し、それを知的に支配し、それでもって死の世界やそこからやってくる恐ろしい悪霊たちを撃退しようとする人間的理性の試みなのである。世界の諸文明はさまざまな形で独自の「数」を見い出してきた。エジプトのように石とその建築技術の中に「数」を見い出した文明もある。メソポタミアのように天空をめぐる星々の内に世界を支配する規則的な法則を見い出そうとした文明もある。ギリシャなどはモノの形や大きさの内に美しい数的法則を見い出した。イスラムは「謎のX」を求めることでこの世界の隠れた真理を求めようとした。インドのように無や輪廻転生を数学化しようとした文明もある。中国のように空間的数には関心がなく、時間的な数とその法則性―人間の運命や歴史として現われる―を易という手法を使って追及した文明もある。日本のように人工的な論理や法則性には興味を抱かず、巡り動く自然の移り変わりの内にまさに自然的な法則性を見い出した文明もある。

世界の諸文明はさまざまな形で「数」を見い出し、独自の数学を築いてきたのだが、西洋文明が見い出した「数」こそ「関数」なのである。次にこの「関数」について考察してみよう。