「日本文学の革命」の日々

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電子同人雑誌の可能性 200 「コンピュータの本質―インターネット発展史とニッポン敗戦史」

2019-09-05 07:05:12 | 日本文学の革命
「インターネットの発展史とニッポン敗戦史」としていろいろ書いてきたが、バブルの破綻から現在に至るまで日本は実に長期に渡る衰退を続けてきた。この間のことを「失われた10年」だとか「失われた20年」だとか呼ばれてきたがバブルの崩壊が91年のことだからそろそろ「失われた30年」に成ろうとしている。いくらなんでも失われ過ぎだろと突っ込みを入れたくなるほどの凋落ぶりである。あのバブルの金満期、この繁栄がいつまでも続くと無邪気に信じて人々がお気楽極楽に暮らしていた時代が夢のようである。

この長期に渡る衰退の原因は、やはり発展の道を日本が失ってしまったことなのだろう。91年に東西冷戦が終結するまでは日本はアメリカのモノマネをすることによって大いに発展することができた。アメリカにしてみたら日本は共産主義から東アジアを守る砦だったので、大いに日本にモノマネさせたし、日本もその波に乗って大いに発展できたのである。しかし冷戦が終結して国際環境が激変してからは、アメリカは日本のモノマネを許さなくなり、逆に日本を攻撃してくるようになって、日本は戦後ずっと続いてきた発展の道を失ってしまったのである。

実はこれは戦前にも起きたことなのである。明治以降の日本は文明開化政策により西洋列強のモノマネをすることによって発展してきた。それは偉大な成功を収め、日本は国力を増大させ西洋列強の一つになるところまで発展できた。ところが第一次世界大戦の終結とともに文明開化という発展の道が不可能になってしまったのである。この大戦で日本がモデルとしてきた西洋列強が自滅してしまい、モデル自体がなくなってしまったのである。またロシア革命が起き、それまで日本が信じて来た価値観―国民国家も資本主義も帝国主義も(この内の「帝国主義」をやったことで日本は侵略国家の汚名を受けてしまったが、もともとは西洋列強がやっていたことを日本はモノマネしただけなのである)すべて否定されてしまった。これ以降日本は発展の道を失ってしまい、経済不況や大恐慌に襲われてどんどん衰退してゆき、ついに崩壊してしまったのである。
外国文明のモノマネができる内は発展し、外国文明のモノマネができなくなると行き詰まって衰退してしまう…。分かりやすい民族ではある。

冷戦が終結しバブルが崩壊した後も「夢をもう一度」と日本は様々な憧れの対象を求め、それによる発展の道を模索し続けてきた。アメリカがだめなら今度はラテン系の西洋に憧れようとJリーグが大ブームになったときもある。ウィンドウズ95が出たときには「これからはコンピュータの時代だ!」とコンピュータを学ぶ大ブームが起きた。しかしこれは発展どころかニッポンの敗戦になってきたことは縷々述べてきた通りである。まったく意外な対象、憧れるどころかそれまで蔑視してきた対象である韓国に対して、憧れが燃えあがった時もある。しかしいずれも新しい発展の道にはつながらなかった。またこれはパンダ外交以来の田中派の宿願なのだが、共産中国に対する憧れとモノマネを起こそうという動きもある。しかしこれは前の夫に捨てられて心細い思いで暮らしている女にヤクザ男が「おいで。おいで」しているようなもので、いったいどういう目に遭わされるか予想がつくので、やめた方がいいものなのだが。

外国のモノマネによる発展ができなくなると、それを見て国粋主義者が台頭してくる。「お前たち外国の猿マネをして恥ずかしくないのか!日本人としての誇りがないのか!」と世の風潮を糾弾してくる。外国のモノマネの反動として日本第一主義となり、外国をやたら蔑視するようになり、気に入らない外国人にはさんざんにヘイトスピーチをかましてやれ!という風潮になってくる。これも戦前にあったことで、この風潮の波に乗って戦前の軍部が台頭してきたのである。

まるで戦前と同じような形で衰退が進行しているのである。この先どうなるか不安になるばかりである。

しかし戦前には文明開化の時代と軍部の台頭の時代との間に「大正時代」というものがあった。これは文化とデモクラシーが栄えた日本文化の一つの黄金期だった時代だが、同時に外国文明のモノマネによらない新しい発展の道を開こうとした時代でもあったのである。これを主導していたのが夏目漱石のような日本文学者たちだったのである。彼らは“あともう一歩”で新しい発展の道を切り開くところまで到達していたのだ。しかし惜しくもそれができず、戦前の破滅の流れを変えることができなかったのである。

僕がやりたいことはこの残されたままの“あと一歩”を成し遂げることに他ならない。もちろんできるかどうか分からないし、そんな能力や資格がそもそも僕にあるのかどうかも大いに疑問である。しかしここに残された“あと一歩”があること、またそれを解決するためにはどうすればいいのか、それにアリアリと気づいてしまったことも事実なのである。気づいてしまった者の責任として、これはどうしてもやらなければならない。能力や資格うんぬんを越えて挑戦しなければならない。そう覚悟を決めて今日もそしてこれからも頑張ってゆくつもりでいる。