「日本文学の革命」の日々

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電子同人雑誌の可能性 203 「コンピュータの本質―関数と西洋文明」

2019-09-23 07:29:01 | 日本文学の革命
西洋文明が見い出した数「関数」とは何か。形態は実にはっきりしている。われわれが高校生のときに覚え込まされたy=f(x)と表わされる数式である。このf()の部分が狭義の意味での関数だが、それは実に様々な形をとることができる。y=x+2だとかy=x(の二乗。すいません…。僕のパソコンでは累乗が表現できません)+3x+5だとかy=x(の三乗)+2x(の二乗)+3z+2だとか無限とも言えるバリエーションで様々な関数が構成できるのである。有名なE=MC(の二乗)も関数の一つで、科学法則の多くも関数の形態をとっている。

この関数を見て気づくのはこれが具体的な数ではないことである。何か確定した大きさを持つ数ではないのである。エジプトの数学の基礎となった「石」はまぎれもなく確定した大きさを持った物体である。この石を切り出したり、運搬したり、積み重ねたりすることに古代エジプト人は彼らの「数学」を見い出したのであり、これを用いて見事な建築物を作り出すことこそ(ピラミッドは今は石がむき出しでぼろぼろの状態だが、建設当時は白亜の外壁に覆われて真っ白に輝いており、砂漠に聳え立つ巨大な正三角形を成していたのである)彼らの数学の「解」であり、彼らの数学の成果なのであった。ギリシャの数学の基礎となった個物(その最高の形態が人間の肉体である)も具体的な形と大きさを持った量的存在である。アラビアの代数学の基礎となった「謎のX」も今は隠れているが代数学的追及によって明らかにすることができる確定した数であった。ところが西洋の関数にはそのような具体性がないのである。たしかに代入すれば具体的な数が出てくる。xに何か具体的な数を代入すればyのところに具体的に確定されたものとして一つの数が出てくる。しかし関数にとってそれはほんの一つの「場合」に過ぎないのである。そんな「場合」はそれこそ無限にあるのである。そのような個々の「場合」、個々の確定した量や個物を超越したところにある何かの法則性、それが関数だと言えよう。

ここで数についてちょっと定義めいたことを述べてみよう。数とはなにか。それは「その世界の根源にあるものを量的に把握しようとしたもの」と言えるだろう。それはエジプトでは宗教的な意味を持った「石」だったのであり、ギリシャではやはり宗教的に聖化された「肉体的個物」だったのであり、アラビアでは「謎のX=神の摂理」だったのであり、インドでは無や輪廻転生であり、中国では道や天の運動だったのである。

ここで重要なのは「根源」とは言ってもあくまで「その世界」に限ったものであるということである。砂漠や石の荒れ地に囲まれたエジプト人にとっては「石」こそが世界の根源にあるもの、世界の秘密に通じるものと認識されたのだろう。しかしそういう環境に生きていない民族、たとえば日本人の場合は、たしかに大きな石には何か畏敬を感じて時には注連縄で飾るときもあるが、別に世界の根源とまでは思っていない。ギリシャの風土であるエーゲ海、どこまでも青い海とそこに彫刻のように聳え立つ美しい島々の世界、そこではその美しい島々のような「個物」こそが世界の根源である(なにしろ彼らはその島々の上で、またその島々を行き巡りながら生活していたのである)と認識され、彼らの研究意欲をかき立てたのだろう。しかしアラビア人にしてみたらそのような「個物」や「肉体」を聖化することはまさに偶像崇拝であり、神の不興を買って地獄に落とされてもおかしくないような罪悪なのである。