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電子同人雑誌の可能性 257 「コンピュータの本質ー数学とは何か 4 」

2022-07-30 13:42:22 | 日本文学の革命
数学とは誤謬や矛盾を含まない論理的に完璧で絶対的な存在である。たしかに一つの数学だけを見るとそうも見えるのだが、世界のさまざまな民族や諸文明が生み出した多種多様な数学世界を見ると、果たしてどれが真に正しい数学なのか、そもそも絶対的に正しい数学などがあるのか、あやしくなってくる。現代ではたしかに西洋数学こそが絶対的に正しいとされていて「死人に口なし」で西洋のみが言いたい放題のことを言っているが、しかしかつての時代さまざまな世界で暮らしてきた人々にとっては、自分たちの数学こそが絶対的に思えたことだろう。エジプト人は自分たちの数学が作り上げたピラミッドを深い満足と文明的誇りを持って眺めていただろうし、ギリシャ人は見事に成し遂げた幾何的証明を眺めながらまるで世界を完成させたかのような万能感に浸っていたことだろう。彼らは自分たちの数学の威力に深く満足し、万物をこの数学の支配下に置くことができると信じ切っていたのである

数学とは一方では「絶対的」だが、他方ではどうも「相対的」存在のようなのである。この状態を説明するためにここで「音楽」について述べてみたい

シュペングラーによると音楽や美術のような造形芸術は数学と深い関係を持っており、一見するとまるで異なるようなジャンルに属しているが実は兄弟姉妹のような近しい関係にあるという。どちらも目指すところは「世界の完成」なのである。自分たちが属しているこの世界を完璧な形に昇華させ、一つの体系として完成させることが目的なのである。ただ数学は知的・論理的・思想的にそれを行うのに対して、音楽や美術は感覚的・感情的・生命的にそれを行うという違いがあるだけなのだ。またどちらも何らかの「外界の事物」をそのための手段としていることも共通している。美術は色や形などを通して「外界の事物」と直接的につながっているし、音楽が依拠している音声や楽器も外界に鳴り響いている一つの現象である。数学もまた「外界の事物」に依拠しており、「石」も「星」も外界の事物だし、「図形」や「数」も抽象度が高いとはいえ外界の事物の一つと言えるのである

西洋クラッシック音楽は西洋数学と同時期に大発展した音楽で、西洋数学に匹敵するほどの完成度と抽象性に達した一大芸術である。その完成度と豊穣性はあらゆる芸術の中でも最高峰のものであり、ギリシャ彫刻だけが肩を並べることができるような最高の芸術性に達している。この西洋音楽に比べたら世界の他の文明が生み出した音楽などは取るに足りないものに見えるし、音楽は西洋クラッシック音楽によってその頂点に達したのだと思えるほどだ

しかしだからといって西洋クラッシック音楽のみが唯一絶対の音楽で、その他の音楽は音楽とは呼べない未開野蛮な代物に過ぎない、せいぜい西洋クラッシック音楽という頂点に向かうための道程に過ぎないものだと主張されたら、これは明らかに誤りだろう。その他の諸文明が生み出した音楽もそれぞれ立派な音楽であり、そこで暮らす人々の心をつかみ、潤いと楽しみを与え、音楽として立派な働きをしていたのである。古代ギリシャも独自の音楽が花開いた世界であり、その音楽はギリシャ人にとってまさに自分たちの世界を表現したものであり、音楽による「世界の完成」だったのである。アラビアの音楽もインドも音楽も、タイや中国やモンゴルの音楽も、そこに暮らす人々にとっては同様なものだったろう。江戸時代の日本も音楽が高度に発展した国だったが、その時代の日本人にとってもこの自分たちの音楽こそが唯一絶対の音楽であり、ここにこそ「日本がある」と感じられたことだろう。現代でも例えばスナックで八代亜紀の歌を歌うことが好きなおじさんや、中島みゆきの曲を聴いて涙を流しているおばさんや、アニメソングを聴いて萌えている若者たちなどは、それぞれに音楽を楽しんでいるのであり、それらが西洋クラッシック音楽に比べてはるかに質の劣る音楽だから、音楽とは呼べない代物だ、聴く価値がない音楽だと言われても、困ってしまうだけなのである

西洋音楽にとっては野性的なリズムに溢れた黒人の音楽などは、まさに未開野蛮な音楽であり、文明のレベルにも達しない原始的音楽に聴こえただろう。「ゴリラもよく胸を叩いてこういう音を出してるね」という程度の動物的音楽に聴こえたことだろう。まさかこの未開野蛮な黒人音楽からジャズやロックが生み出されて、世界に冠たる偉大な西洋音楽を「クラッシック」の地位に落とすとは、昔の西洋人には想像もできないことだったに違いない

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