名峰登山と草花

春から秋にかけて、登山と草花探索等を掲載。植物観察、世界歴史遺産巡り、庭園観賞、素人農業にもチャレンジ中。

ハギクソウの観察

2018-01-30 17:55:10 | 自然観察_テーマ別

「ハギクソウ」 葉菊草 トウダイグサ科 トウダイグサ属 (Euphorbia octoradiata)

 ハギクソウを調べに行きたいと相棒が宣うので、調査に同行した。絶滅危惧種1A類に
分類されるそうで、正に絶滅の一歩手前なのだそうだ。見つかるかどうか危ぶみながら
浜辺を探した。全国でも愛知県にしか存在しない(世界中で日本の愛知県にのみ存在する)
そうで、日本の他の場所では絶滅しているそうだ。
 というわけで、いろいろ撮影してみました。今春、花が咲く頃に再度、出かけてみたい。

 


「ハギクソウ」の解説

 ハギクソウは「葉菊草」で、紅葉した葉が菊の花のように見えることが名の由来です。
花よりも美しく紅葉した葉の方が有名なようです。花は黄色で春に咲きます。

 高さ35~45cmの、海岸の砂地に生える多年草です。直立した茎に茎葉を密に互生させ
ます。茎葉は花期には長さ4~5cm・幅5mmほどで、花後に葉菊になると長さ7cmほどになり
ます。

 日本では現在愛知県にのみ生育します。九州や三重県では絶滅したとされています。
生育地は限定され、個体数も約300と限られたものなので、絶滅の危機に晒されています。
環境省は最も絶滅が危惧される1A類に分類し、20年後の絶滅確率は30%と推計しています。

 備考:説明文はInternetの記事から借用、編集させていただきました。(悪しからず)

以上です。

 


雪の名古屋城を散策

2018-01-27 10:40:27 | 庭園鑑賞(日本)

 日本列島が大寒波に覆われた1月25日、26日と名古屋でも2、3cmの
雪が積もった。日陰の道路は根雪となり路面凍結が起こった。
 1月26日、思い立って名古屋城の雪景色を撮りに出かけた。が、日が昇り
かけた時刻になってしまったので、天守閣の雪景色を撮ることはできなかった。
それでも木陰の道には雪が残り、冷たい風に粉雪が舞い上がっていた。
 名古屋城の散策は、本丸御殿、天守閣と定番コースを周り、その後、かねてから
回ってみたいと思っていた二の丸庭園へ立ち寄りグルッと回ってみた。雪が残って
いるので、普段見る光景とは少し異なるだろうと思ったが、そうは変わるまいと
思って観賞した。一部、工事中の箇所もあったが、ゆったりとした庭園を味わう
ことができた。

以上です。


ベトナムへ_3(ハロン湾、ハノイ市) -記録-

2018-01-26 07:55:30 | 海外・旅行記

 10年前の5月に、友人とハノイへ旅行をした。ここでは、ベトナム報告ついでに
記録として、ハノイの記事を登録することとした。この時は、多少の用事とハロン湾
観光を目的として出かけた。もちろん、自費です。
 ハノイ駅近くのホテルニッコーハノイに泊まりました。街中のオートバイの多さ
にビックリ、信号を守らないことにビックリ、2人乗りが多く、3人乗り、4人乗り
も珍しくないことにビックリ、天秤棒に野菜や果物を担いでオートバイのラッシュの
中を歩いて行く伯母様達を見て更にビックリしました。
 観光ガイドさんの案内は良心的で、共産圏であるにも関わらず、街中の人々も親日
的で、かつ親切でした。

 目玉のハロン湾観光は、世界遺産であるだけにスケールが大きく、圧巻でした。昔
の船を思わせる観光船の多さにも驚きました。
 街中の散策も楽しかったのです。10年前のことなので、現在はもう少し都会の
雰囲気になっていることと思いますが、興味がありましたらご覧下さい。

 

<参考>ベトナム近代史  この際、ベトナムの歴史を勉強しました。いや、なかなか紆余
曲折、2000年の旅は長いです。根気の続く方はお読み下さい。

ベトナムの歴史 (王朝と政権と戦争)

 ベトナムは、中国の秦王朝以降、約1000年を中国に支配されてきた。11世紀に入り
1009年に大越国(李朝)が独立し、13世紀に陳朝、1400年に胡朝、1428年に
黎朝が成立した。黎朝は明との良好な関係を維持した。17世紀に入ると武将の鄭氏と阮氏が
争って、長期の内乱になった(鄭、阮二百年戦争)。ベトナムの北部を鄭氏が南部を阮氏が
支配した。その後、中部のフエに阮氏が独立政権を樹立し広南国と称した。18世紀に入ると
中部の西山(タイソン)にいた西山阮氏が西山朝(1778~)を起こし、1789年にハノイ
の黎朝・鄭政権を支援し、清軍の侵攻を破ってベトナムを統一した。1802年には広南阮氏
の末裔がフランス人の支援を得て阮朝を復興し、国号を越南国とした。都をフエにおき、清朝
を宗主国としてベトナム統治を始めた。

 植民地政策を進めるフランスは、阮朝がキリスト教を禁止し宣教師を処刑したことに対して
1858年にベトナムに出兵した。1862年にサイゴン条約でベトナム南部を直轄領とし、
更に1867年にはベトナム南部に支配を拡大した。1884年宗主権を主張する清国と侵略
を進めるフランスは清仏戦争となるが、清国が敗退し宗主権を放棄した。1887年には仏領
インドシナ連邦が成立し、ベトナムはそれに編入された。(阮朝はフエに形式的に存続する)

 1904年には自立を求めるファン・ボイ・チャウらの英雄は維新会を結成し、ロシアに
勝利した日本に学び日本の支援を受けようとして東遊運動を起こし、日本留学を開始したが、
日本政府は日仏協約により協力しなかったため、この運動は失敗した。次に1911年に中国
で起きた辛亥革命の影響を受け、ファン・ボイ・チャウらは共和制による独立を目指してベト
ナム光復会を組織したが、フランスにより厳しく弾圧された。1930年にはフランス、ロシア
でマルクス主義を学んだ社会主義者ホー・チ・ミンがベトナム共産党を結成し、民族運動を
指導しはじめた。

 1940年9月、本国フランスがドイツ軍に占領されたことを受け、日本軍が北部ベトナムに
進駐し、1941年7月には南部ベトナムを占領して支配を行った。この間、44年末から
45年にかけて、日本軍の占領政策によりすさまじい食糧不足が発生し、大量の餓死者を発生
させたことから、反日感情が起こった。

 1945年8月に日本軍が降伏すると、ホー・チ・ミンの指導するベトナム民主共和国が
1945年9月に独立を宣言したが、植民地支配を復活させようとする仏軍が進駐してきた
ため、両者間で激しいインドシナ戦争が行われた。1949年にはフランスはバオダイ帝を
擁立してベトナム国を樹立し、傀儡政権とした。1949年に中華人民共和国が独立すると、
アメリカはアジアの共産主義化を防ぐため、フランスの支援を始め、インドシナ戦争はベト
ナム人民とフランス、アメリカの対立の構図となった。ホーチミンの指導するベトナム労働党
を中心とするベトナム独立同盟(ベトミン)がゲリラ戦を展開し、1954年のディエン
ビエンフーの戦いで勝利して、フランスを追い出すことに成功したが、アメリカは南部一帯
を占領した。

 1954年のジュネーブ休戦協定では17度線を停戦ラインとしてインドシナ戦争が停戦
となった。北ベトナムにはホーチミンが指導してベトナム民主共和国が、南ベトナムには翌年
にアメリカが支援するゴ・ジン・ジェムのベトナム共和国が成立し、両者は激しく対立した。
1960年12月には南ベトナム民族解放戦線が抗米救国のための統一戦線として結成され
南ベトナム人民革命軍を組織した。一方、南のゴ・ジン・ジェム政権は国民の支持を失い、
弱体化していった。

 インドシナ全域の共産化を恐れるアメリカは1964年トンキン湾で海軍が砲撃を受けた
という「トンキン湾事件」をでっち上げ、北ベトナムの空爆を開始した。翌1965年からは
本格的な北爆を開始し、宣戦布告のない「ベトナム戦争」が始まった。米軍はベトナム全土を
制圧すべく地上軍を投入して戦線を拡大したが、ベトナム民衆は地下に潜って空爆に耐え、
ゲリラ戦術で果敢に戦った。北ベトナムからホーチミンルートで支援された解放戦線は次第に
米軍を圧迫していった。

 米軍の厭戦機運や内外の批判などを受け、和平への動きが進み、1967年5月にはベトナム
和平会議が、米国の北爆停止宣言を受けて開始された。1969年1月からはベトナム民主
共和国(北ベトナム)、南ベトナム解放戦線(ベトコン)、ベトナム共和国(南ベトナム)、
アメリカの代表が参加して協議されたが、進展しなかった。1970年米国ニクソン政権は
交渉を有利に進めるため、カンボジア侵攻、ラオスへの空爆を行い戦線を拡大したが、軍事的
成果は上がらず、かえって内外の反戦運動を活発にした。このような中、ベトナム戦争の停戦、
アメリカ軍の撤退、南ベトナムの政治的対立の解決、捕虜の相互解放などで合意に達し、
1973年1月27日に、べトナム和平協定(パリ和平協定)が成立した。南ベトナム政権の
あり方には合意がなかったため、政府軍と解放戦線の内戦はなおも続き、75年にサイゴンが
陥落して南ベトナム政府が崩壊し、ようやく戦争が終結する。1976年に現在のベトナム
社会主義共和国が成立し、首都は北ベトナムのハノイが継承し、1977年に国連に加盟した。

 ベトナム戦争後も、1979年1月のカンボジアに侵攻、同年の中国との中越戦争と戦時態勢が
続き、国民生活を圧迫し続けた。また南北統一後、全土の社会主義化を進めようとしたが、生産は
停滞し、経済成長が止まり、政策の転換を余儀なくされた。1985年にソ連に登場したゴルバ
チョフ政権がペレストロイカという改革を開始すると、ソ連の影響の強かったベトナムでも、
1986年から市場経済の導入に踏み切った。その新路線をベトナム語でドイ・モイ(刷新の意味)
と言った。この路線への転換は、政治的な混乱もなく、比較的スムースに行われた。1989年
にはカンボジアからも撤退し、91年にカンボジア和平協定が成立した。1995年には東南
アジア諸国連合(ASEAN)に加盟、同年アメリカとも国交を正常化させ、経済は回復に向
かって現在に至っている。

以上です。 (お疲れ様!)

 


ベトナム・ホーチミン市への旅_2  -植物観察-

2018-01-24 21:27:51 | 海外・植物観察

サイゴン動・植物園と街路樹などの観察

 サイゴン動植物園は1864年にフランス人植物学者ルイピエールによって創設された
世界で6番目に古い動植物園だそうである。特に、植物園には貴重な植物が集められて
いたが、ベトナム戦争時に破壊されて喪失し、現在も修復中のようだ。
 最初にガイド・トレインに乗車して園内を一周した後、植物観察を中心に再度、園内を
歩き回った。植物観察第一で、動物観察は殆ど省略した。動物園ではコビトカバが有名な
ようだが、警備員やガイドマンに聞いても分からなかった。一応カバの写真は撮ったが、
コビトカバかどうか??だ。日本語も英語も通じないのだから、やむを得ないか?
 植物園にはいろいろな花が咲いていた。ランを始めとして、蔓の植物、板根を有する
巨木、葉の大きな樹木等、色とりどりの花をつけた熱帯植物が見受けられた。

 街中では道路脇の植え込みや街路樹が意外に綺麗に整然と植えられていた。グエンフエ
大通りや旧・大統領官邸前の道路には綺麗な花が咲いていた。ところが一方、バイクの
暴走する主要道路はまだ整備中のところが多く、埃っぽくて閉口した。正に開発途上の
国であり、伸び盛りのエネルギーを感じた。JICAが地下鉄工事の支援をしているよう
で、2年後には初の地下鉄が開通するようだ。

 

以下、個別の植物の写真を掲載します。

     

      

      

      

       

      

    

<街路の樹木、植え込み>

      

      

以上です。

 なお、 前回の記事「ベトナム・ホーチミン市を訪ねた」に、ホテル・ライフの記事を

追加しました。


ベトナム・ホーチミン市を訪ねた。

2018-01-21 10:36:56 | 海外・旅行記

 ベトナムのホ-チミン市、そう、旧・南ベトナムの首都で、当時のサイゴン市です。北
ベトナムからの統一後にホーチミン市と改名されました。そのホーチミン市へ出かけてき
ました。

 東南アジアは時差が少なく、帰国後も時差ボケがおきにくいのがいいですね。ちなみに
ホーチミン市の場合は時差が2時間です。今回のツアー予約(飛行機とホテル)は正月明け
で割安料金でしたが、早く申し込んだ特典で、5つ星ホテルの最上階のラウンジを無料で
使えるというメリットを享受でき、少しリッチな気分を味わうことができました。

 ホーチミン市には特別な歴史遺産はありませんが、元・南ベトナムの大統領官邸(現在の
統一会堂)、聖母マリア教会、市民劇場、ホーチミン像、人民委員会・庁舎、歴史博物館、
動・植物園、タワービル(スカイデッキ49F)、ドンコイ通り、ベンタイン市場、新しく出店
した高島屋百貨店、等を散策しました。市内散策にはドンコイ通りのシェラトンホテルの
ロビーを中心に活用しました。

ホテルは快適 (ホテル ニッコー サイゴン)
 部屋は客室最上階(22階)の広々とした高級な部屋を使わせていただきました。23階に
ある高級ラウンジのアフタヌーンティー、夜の軽食&アルコールの飲み放題、食べ放題を満喫
しました。特に、夜景を見ながらの夜のアルコールは最高でした。5階の20mプールは屋上
にあり、開放感がありゆったりとした一時を味わうことができました。

以上です。

 

 

 


渥美半島・伊良湖岬へ  -冬の浜辺を彩る植物達-

2018-01-13 14:58:50 | 自然観察_野山

 正月3ヶ日が過ぎ、余裕ができたので天気も良さそうな4日に伊良湖岬へ
出かけた。
 伊良湖岬には何回か来たことはあるが、実家のある湖西市から太平洋側を
西進するルートが常であった。今回は蒲郡から23号線を南下し、大崎ICを
でて植田バイパス(内海側)を西進し、しばらく走ってから半島を横断して
赤羽根港付近(太平洋側)へでた。ここから先はこれまで使った道42号線を
西進した。
 途中、伊良湖ビューホテルに立ち寄り、この辺りから海岸線(砂浜)へ降り
立ち、所々で散策をしながら伊良湖岬へと進んだ。丘陵の斜面の原生林や岸壁
や洞穴、また海に浮かぶ神島や岸辺の岩などが見応えのある風景となっている。
また、青い空と紺碧の海、白い砂浜の色合いが我々の目を楽しませてくれた。
 浜辺には小さな黄色の花をつけたもの、黒紫の実をつけたシャリンバイ、
大きな葉のハマアザミ、砂浜の中にチョッコリ座ったようなネコノシタなどが
が生えており、目についた。

個別写真を掲載します。

    

   

       

      

     

    

 

 

以上です。

 


剱岳への登山道で見た樹木、高山植物など

2018-01-12 22:12:28 | 百名山の花_北アルプス

 剱岳の登山道に咲く植物もなかなか豊かだ。ただ、この時期はまだ高山植物への
興味がそれ程でもなく、従って、写真の数が少ないのが残念だ。
 それでも、目に留まった樹木、草花などを載せましたのでご覧下さい。

以下、個別の写真を掲載します。

     

      

      

以上です。

<追記>先の「北アルプス_剱岳」の記事に余談を追記しました。

 


北アルプス_剱岳  -記録-

2018-01-06 22:09:40 | 登山_北アルプス

北アルプス_剱岳 (2999m)

 平成15年9月22日、23日に剱岳に登った。ルートは先に薬師岳登山時に
富山市のT氏から教わった、上市・馬場島からの早月尾根ルートだ。東海北陸道の
SAで前泊し、小矢部JCから北陸道に入り、立山ICで出線して早朝に馬場島
駐車場に到着した。このルートは山上では早月小屋へ一泊するだけで下山できそう
なので好都合だ。6時半頃から登山を開始したが、いきなりの急登から始まった。
ガイドブックによれば、日本一の急登だそうだ。登山口の標高は760m、早月小屋
は2240mなので、今日登るのは標高差約1500mで良い。
 信仰の道だけあって途中には嘗て植えられたと思われる巨大な立山杉が随所に現れ
た。樹齢数百年はあろうと思われる巨大な杉だ。しばらくすると北に富山市や日本
海を見ることができた。昼食後に歩き始めたところで足に痙攣が出たので、少し休憩
してゆっくり登り、14時30分頃に早月小屋に着いた。少し早いがこの日はここで
宿泊した。
 翌日、小屋を出発し、獅子ノ頭、カニのハサミ等の絶壁を登り、9時過ぎに山頂に
到達した。天気は良く、ほぼ360度の展望を得ることができた。

<余談> 10時頃から下山し、1時間ほど下ったところで、ハイペースで登ってくる
強者達に出会い、道を譲って待機すると、その一団の中に見覚えのある顔があった。
見間違えかもと思いながら声をかけてみると、先月、薬師岳登山で出会いこのルートを
教えてくれたTさんだった。お互いに感激し、再度、挨拶を交わした後、ここでは、
その場で分かれた。Tさんは日帰り予定で登ってきており、下山後の駐車場での再会を
期待することとした。14時頃早月小屋に着き、少し休憩して下山に入り、18時頃
松尾平(標高1200m)当たりを歩いているとTさんに追いつかれた。よたよた歩きの私
達はTさんに激励されながら、19時頃に登山口に下山できた。
 Tさん家族とは、その後数年間、登山や家族の話を交換する、山友としてのお付き
合いとなった。

個別の写真を追記します。

     

    

    

     

    

以上です。