名峰登山と草花

春から秋にかけて、登山と草花探索等を掲載。植物観察、世界歴史遺産巡り、庭園観賞、素人農業にもチャレンジ中。

ベトナムへ_3(ハロン湾、ハノイ市) -記録-

2018-01-26 07:55:30 | 海外・旅行記

 10年前の5月に、友人とハノイへ旅行をした。ここでは、ベトナム報告ついでに
記録として、ハノイの記事を登録することとした。この時は、多少の用事とハロン湾
観光を目的として出かけた。もちろん、自費です。
 ハノイ駅近くのホテルニッコーハノイに泊まりました。街中のオートバイの多さ
にビックリ、信号を守らないことにビックリ、2人乗りが多く、3人乗り、4人乗り
も珍しくないことにビックリ、天秤棒に野菜や果物を担いでオートバイのラッシュの
中を歩いて行く伯母様達を見て更にビックリしました。
 観光ガイドさんの案内は良心的で、共産圏であるにも関わらず、街中の人々も親日
的で、かつ親切でした。

 目玉のハロン湾観光は、世界遺産であるだけにスケールが大きく、圧巻でした。昔
の船を思わせる観光船の多さにも驚きました。
 街中の散策も楽しかったのです。10年前のことなので、現在はもう少し都会の
雰囲気になっていることと思いますが、興味がありましたらご覧下さい。

 

<参考>ベトナム近代史  この際、ベトナムの歴史を勉強しました。いや、なかなか紆余
曲折、2000年の旅は長いです。根気の続く方はお読み下さい。

ベトナムの歴史 (王朝と政権と戦争)

 ベトナムは、中国の秦王朝以降、約1000年を中国に支配されてきた。11世紀に入り
1009年に大越国(李朝)が独立し、13世紀に陳朝、1400年に胡朝、1428年に
黎朝が成立した。黎朝は明との良好な関係を維持した。17世紀に入ると武将の鄭氏と阮氏が
争って、長期の内乱になった(鄭、阮二百年戦争)。ベトナムの北部を鄭氏が南部を阮氏が
支配した。その後、中部のフエに阮氏が独立政権を樹立し広南国と称した。18世紀に入ると
中部の西山(タイソン)にいた西山阮氏が西山朝(1778~)を起こし、1789年にハノイ
の黎朝・鄭政権を支援し、清軍の侵攻を破ってベトナムを統一した。1802年には広南阮氏
の末裔がフランス人の支援を得て阮朝を復興し、国号を越南国とした。都をフエにおき、清朝
を宗主国としてベトナム統治を始めた。

 植民地政策を進めるフランスは、阮朝がキリスト教を禁止し宣教師を処刑したことに対して
1858年にベトナムに出兵した。1862年にサイゴン条約でベトナム南部を直轄領とし、
更に1867年にはベトナム南部に支配を拡大した。1884年宗主権を主張する清国と侵略
を進めるフランスは清仏戦争となるが、清国が敗退し宗主権を放棄した。1887年には仏領
インドシナ連邦が成立し、ベトナムはそれに編入された。(阮朝はフエに形式的に存続する)

 1904年には自立を求めるファン・ボイ・チャウらの英雄は維新会を結成し、ロシアに
勝利した日本に学び日本の支援を受けようとして東遊運動を起こし、日本留学を開始したが、
日本政府は日仏協約により協力しなかったため、この運動は失敗した。次に1911年に中国
で起きた辛亥革命の影響を受け、ファン・ボイ・チャウらは共和制による独立を目指してベト
ナム光復会を組織したが、フランスにより厳しく弾圧された。1930年にはフランス、ロシア
でマルクス主義を学んだ社会主義者ホー・チ・ミンがベトナム共産党を結成し、民族運動を
指導しはじめた。

 1940年9月、本国フランスがドイツ軍に占領されたことを受け、日本軍が北部ベトナムに
進駐し、1941年7月には南部ベトナムを占領して支配を行った。この間、44年末から
45年にかけて、日本軍の占領政策によりすさまじい食糧不足が発生し、大量の餓死者を発生
させたことから、反日感情が起こった。

 1945年8月に日本軍が降伏すると、ホー・チ・ミンの指導するベトナム民主共和国が
1945年9月に独立を宣言したが、植民地支配を復活させようとする仏軍が進駐してきた
ため、両者間で激しいインドシナ戦争が行われた。1949年にはフランスはバオダイ帝を
擁立してベトナム国を樹立し、傀儡政権とした。1949年に中華人民共和国が独立すると、
アメリカはアジアの共産主義化を防ぐため、フランスの支援を始め、インドシナ戦争はベト
ナム人民とフランス、アメリカの対立の構図となった。ホーチミンの指導するベトナム労働党
を中心とするベトナム独立同盟(ベトミン)がゲリラ戦を展開し、1954年のディエン
ビエンフーの戦いで勝利して、フランスを追い出すことに成功したが、アメリカは南部一帯
を占領した。

 1954年のジュネーブ休戦協定では17度線を停戦ラインとしてインドシナ戦争が停戦
となった。北ベトナムにはホーチミンが指導してベトナム民主共和国が、南ベトナムには翌年
にアメリカが支援するゴ・ジン・ジェムのベトナム共和国が成立し、両者は激しく対立した。
1960年12月には南ベトナム民族解放戦線が抗米救国のための統一戦線として結成され
南ベトナム人民革命軍を組織した。一方、南のゴ・ジン・ジェム政権は国民の支持を失い、
弱体化していった。

 インドシナ全域の共産化を恐れるアメリカは1964年トンキン湾で海軍が砲撃を受けた
という「トンキン湾事件」をでっち上げ、北ベトナムの空爆を開始した。翌1965年からは
本格的な北爆を開始し、宣戦布告のない「ベトナム戦争」が始まった。米軍はベトナム全土を
制圧すべく地上軍を投入して戦線を拡大したが、ベトナム民衆は地下に潜って空爆に耐え、
ゲリラ戦術で果敢に戦った。北ベトナムからホーチミンルートで支援された解放戦線は次第に
米軍を圧迫していった。

 米軍の厭戦機運や内外の批判などを受け、和平への動きが進み、1967年5月にはベトナム
和平会議が、米国の北爆停止宣言を受けて開始された。1969年1月からはベトナム民主
共和国(北ベトナム)、南ベトナム解放戦線(ベトコン)、ベトナム共和国(南ベトナム)、
アメリカの代表が参加して協議されたが、進展しなかった。1970年米国ニクソン政権は
交渉を有利に進めるため、カンボジア侵攻、ラオスへの空爆を行い戦線を拡大したが、軍事的
成果は上がらず、かえって内外の反戦運動を活発にした。このような中、ベトナム戦争の停戦、
アメリカ軍の撤退、南ベトナムの政治的対立の解決、捕虜の相互解放などで合意に達し、
1973年1月27日に、べトナム和平協定(パリ和平協定)が成立した。南ベトナム政権の
あり方には合意がなかったため、政府軍と解放戦線の内戦はなおも続き、75年にサイゴンが
陥落して南ベトナム政府が崩壊し、ようやく戦争が終結する。1976年に現在のベトナム
社会主義共和国が成立し、首都は北ベトナムのハノイが継承し、1977年に国連に加盟した。

 ベトナム戦争後も、1979年1月のカンボジアに侵攻、同年の中国との中越戦争と戦時態勢が
続き、国民生活を圧迫し続けた。また南北統一後、全土の社会主義化を進めようとしたが、生産は
停滞し、経済成長が止まり、政策の転換を余儀なくされた。1985年にソ連に登場したゴルバ
チョフ政権がペレストロイカという改革を開始すると、ソ連の影響の強かったベトナムでも、
1986年から市場経済の導入に踏み切った。その新路線をベトナム語でドイ・モイ(刷新の意味)
と言った。この路線への転換は、政治的な混乱もなく、比較的スムースに行われた。1989年
にはカンボジアからも撤退し、91年にカンボジア和平協定が成立した。1995年には東南
アジア諸国連合(ASEAN)に加盟、同年アメリカとも国交を正常化させ、経済は回復に向
かって現在に至っている。

以上です。 (お疲れ様!)

 



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