名峰登山と草花

春から秋にかけて、登山と草花探索等を掲載。植物観察、世界歴史遺産巡り、庭園観賞、素人農業にもチャレンジ中。

欧州の庭園 -シェーンブルン庭園-

2017-02-26 19:59:07 | 海外・庭園鑑賞

シェーンブルン宮殿の庭園(オーストリー)

   宮殿正面の大きな広場から宮殿を横に回り込むと庭園の入り口がある。正面からみる

  シェーンブルン宮殿の建物は迫力があるが、宮殿の裏側にある庭園も見応えがあり、

  素晴らしい。庭園は奥行きを感じさせる作庭の技法が使われているようだ。ベルサイユ

   宮殿の庭園を感じさせる作りだ。

  宮殿内部の写真撮影ができないのは残念である。ベルサイユ宮殿のように撮影可にして

  欲しいものだ。

 

シェーンブルン宮殿は・・・、

夏の離宮だったシェーンブルン宮殿は、ヨーロッパで最も美しいバロック宮殿であり、1569年に

ハプスブルク皇帝家の所有となった。オスマントルコ軍のウィーン攻囲の後、1696年に新たな

宮殿と庭園施設が建設され、マリア・テレジア女帝の時代(1743年以降)、抜本的に改築された。

宮殿内には公的な目的の広間のほかに多くの私室があり、ハプスブルク家の人々は年の大半を、

これらの部屋で過ごした。この宮殿で生まれたフランツ=ヨーゼフ皇帝(在位1848〜1916)の死去

の2年後1918年、宮殿は新生のオーストリア共和国の所有するところとなった。

その歴史的重要さ、美しい環境、豪華な建築様式、庭園の素晴らしい配置で、シェーンブルン

宮殿はウィーンで最も人気の高い名所となっている。宮殿内に1441の部屋があり、そのうち45の

部屋が一般公開されている。ユネスコ世界遺産に登録されている。

 

シェーンブルン庭園は・・・、

  総面積約1.7平方Km。広大で美しい庭園はバロック庭園の典型といわれ、美しく整えられた

幾何学的な構成の花壇や菩提樹の生垣が特徴。宮殿から庭園に出た正面中ほどには

ネプチューンの泉があり、右側の区画には迷路庭園、温室(1882年完成)と動物園がある。

1913年頃に造られたという日本庭園もある。(時間が無く、写真はありません)

 

以下、個別の写真を掲載します。

     

     

     

以上です。

 


北から南へ9 上信越の山_1 (平ヶ岳、越後駒ヶ岳、巻機山)

2017-02-24 10:46:47 | 百名山の花_上信越

北から南へ。上信越の山_1 (平ヶ岳、越後駒ヶ岳、巻機山)

 深田久弥の日本百名山の本をめくると24番目から35番目までが上信越の山として
掲載されている。百名山を登山してきて、最後に上信越、北関東などの山々が最後まで
残ってしまった。平成24年7月に百名山を完登したが、最後の2、3年にこの辺りの
山(上信越、北関東)を総ざらいした。急いで回ったため、花の時期にゆっくり花の写真
を撮ることはできなかったが、とれる範囲では登山道脇に咲く花や実、樹木の写真を撮っ
た。秋に登山した山が多いので、花よりも紅葉の写真が中心になる。
 これまで、「草花を撮る。北から南へ」というテーマで北海道、東北の山と花の写真を
掲載してきたが、秋の登山が大半となったので、趣旨替えをして「登山と自然観察。北
から南へ」と変更して登録することとする。

1)平ヶ岳(2141m) H22年10月9日
 民主党が政権を取って、私たち山屋にとっては週末の高速道路料金がどこまで行っても
1000円という信じられない恩恵を受けることができた。名古屋から中央道、長野道、
北陸道、関越道を通り、川口SAにて仮眠し、2時に小出ICをでて、銀山平に向かった。
3時半には銀山平に到着し、3:50出発の登山者向けマイクロバスに乗り、中ノ俣林道
の終点まで運んでもらった。5時には登山開始で平ヶ岳に向かった。生憎の曇り空、霧雨
の中での登山となった。急いで登山し8:30頃には山頂に到達した。稜線から頂上辺り
では雨はやんだが、霧に迎えられ、視界がとれず残念であった。途中、紅葉の樹木と草の
実等を少し撮影することができた。
 帰りのバスは12時に出るというので、9時過ぎには下山の体制に入り、11:30に
下山して、14時頃に銀山平に戻った。

個別写真

      

      

       

       

   

2)越後駒ヶ岳(2003m)   H22年10月10日
 昨日からの雨で登山道は濡れていたが、曇り空の中の登山となった。駐車場から駒ヶ岳
山頂までは、長いアップダウンの続く登山道であった。天気がよければ素晴らしい風景を
見られたと思うが雲に遮られ部分的な山容しか納めることができなかった。駒の小屋で一時
雨に降られたが、登山は順調にこなすことができた。

 下山後、今晩の宿泊先、六日町清水の民宿「やまご」に向かった。インターネットで
調べて、地元の名士らしいと判断して選んだ。ご主人は山岳指導員や狩猟をやられ、大変
な物知りで、巻機山や地元のお話をいろいろ伺って参考になった。

個別の写真

    

    

個別写真は以上です。

3)巻機山(1867m)  H22年10月11日

 巻機山はマキハタヤマと読む。早朝に登山口駐車場に車を止め、登山を開始した。天気は
曇り空であったが、回復するとの予報があったので期待しつつ登った。昼頃から晴れてきて
素晴らしい山容の写真が撮れた。やまごのご主人から山頂からもう少し先の「牛首」までいく
ように進められたのでそこまで進んだ。紅葉の原っぱ、湿原など巻機山の良さを満喫できた。

 実は昨年4月末、2回目の巻機山を訪ね、山麓を散策した。前回、歓待していただいた
「やまご」に宿泊した。やまごでは猪鍋のお相伴にあずかり、また翌日にご主人にお願いして、
「オオヤマザクラ」の見学に案内していただいた。株立ちの素晴らしい野生の大山桜を写真に
収めることができた。

巻機山の個別写真

    

      

     

     

春の巻機山の個別写真

     

       

以上です。


アンダルシアの庭園と自然

2017-02-16 14:02:53 | 海外・庭園鑑賞

アンダルシアの庭園と自然 (アルハンブラ宮殿、他)

 最近、中国・上海の「豫園」という、ちょっとごてごてした明代の庭園を見た。
思うに、西洋の庭園ではベルサイユ宮殿の目を見張るような広大な庭園を以前に掲載
しているが、他にも感動した庭園が幾つかあるので、今回はスペインで見たアルハン
ブラ宮殿等の庭を掲載してみることとする。スペインの歴史遺産や植物については
これも掲載済みであるので、若干重複するところも出てくるが、ご容赦いただきたい。
 グラナダのアルハンブラ宮殿(庭園を含む)と谷を挟んだヘネラリーフェ庭園は
イスラム文化とキリスト文化の融合した郷愁をそそる史跡だ。ここに、庭園や植物、
自然の風景を中心に掲載するが、史跡も入ってしまうのはやむを得ない。次いで、
ロンダやミハス等アンダルシアの高台(城塞)の素晴らしい自然の風景を掲載する。

ムーア人のイベリア半島進出とアルハンブラ宮殿の歴史
 スペインはキリスト教(カトリック)の西ゴート王国が支配していたが、711年
イスラム教のウマイヤ朝(ムーア人)がイベリア半島に進出し、数年で半島全域を占領
してしまった。最初に栄えたのは後ウマイヤ朝でコルドバを首都とした。この頃のアル
ハンブラは要塞としてのお城だけがあった。11世紀前半からレコンキスタ(キリスト
教徒の国土回復運動)が本格化し、1085年トレド、1236年コルドバ、1246
年にはセビリアが陥落した。この時点で、グラナダを首都とするナスル朝(1238-1492)
が最後までイベリア半島南部(アンダルシア南部)に残った。アルハンブラ宮殿の充実
は、14世紀のムハンマド5世の前後に主に行われた。その後、キリスト教徒に渡った
後も王様の避暑地として宮殿は強化された。

スペイン中部 (首都マドリッドと古都トレド)
 主題からそれるが、現在の首都マドリッドにある王宮の庭と古都トレドの風景を追加
で掲示する。

  以上です。以下個別の写真を掲示する。

    

       

    

    

     

     

     

    

    

 

以上で、終わりです。


古代・越中の国を訪ねて

2017-02-12 17:36:09 | 歴史と史跡を訪ねる(日本)

  今年は万葉集によく出てくる大伴家持の生誕1300年だそうだ。家持(29歳)は
新進気鋭の青年貴族として越中の国に国主として奈良の都から赴任し、5年間を国府(
現在の富山県高岡市伏木周辺)に滞在して勤めを果たし、34歳にて都に復帰された。
現在の高岡市伏木には越中の国庁跡、国分寺跡、家持の住まい跡、などの史跡が残り、
不明確な部分の調査が進んでいる。
 家持は5年の越中赴任の間に数多くの歌を詠み、各地の石碑に刻まれて残されている。
私は文学音痴ではあるが、伏木にある万葉歴史館にてガイドの講釈を聞き、紹介映画を
見せていただいて、随分と学習できた気がする。奈良時代の越中の国は現在の富山県と
能登半島を合わせたエリアで、加賀国は当時はなく、石川県は越前と越中に含まれていた
そうである。
 今回は古代・越中の史跡を訪ね、歌詠み家持が歌を詠んだ現地に石碑を訪ねた。雨晴
(アマハラシ)海岸からは海越しに雄大な立山連峰を見渡せるはずであったが、上半分が
雲に隠れていたのは残念であった。一通りの散策の後、氷見に出かけ、番屋でグルメを
楽しみ土産を買い込んで帰宅の途についた。東海北陸道が貫通して、高速バスが名古屋~
高岡間を便利に繋いでくれ、3、4時間で快適に直行できるようになってうれしい限りだ。

 

大伴家持(おおとものやかもち)略歴

    養老2年(718)に生まれた、奈良時代の貴族で歌人である。大伴氏は
   大和朝廷以来の武門の家柄で祖父安麻呂、父旅人とともに律令制度下の高級官吏
   として活躍した。天平18年(746)に越中の守となった家持は越中の自然と
   風土の素晴らしさを223首の歌に残した。朝廷では越中復帰後、兵部小輔、
   因幡の守、薩摩の守、参議、陸奥鎮守将軍などを歴任した。また、万葉集編纂の
   中心的な役割を果たし、延暦年間(783)には従三位中納言にまで昇進した。
   785年暗殺事件に巻込まれ、罪を被る中、没する。806年罪を解かれ復位。

 

万葉集(全20巻:4500余首)  大伴家持:473首(越中にて223首を詠む)

大伴家持の歌(目についたもの7首)
     もののふの 八十をとめらが 汲み乱ふ(くみまがう)
           寺井の上の 堅香子の花(かたかごのはな) 堅香子:カタクリ

     立山に 降り置ける雪を 常夏に 見れども飽かず 神からならし
 
     磯の上の 都萬麻(つまま)を見れば 根を廷(は)えて 
                         年深からし 神さびにけり

     妹に逢はず 久しくなりぬ 𩜙石川(にぎしがは)
             清き瀬ごとに 水占廷へてな(みなうらはへてな)


     春の園 紅にほふ 桃の花 下照る道に 出で立つ娘子(をとめ) 

     馬並めて いざうち行かな 渋谿(しぶたに)の 
                    清き磯廻(いそま)に 寄する波見に

            朝床に 聞けば遙けし 射水川 朝漕ぎしつつ 歌う船人 
                                     以上

以下、個別の写真を掲載します。

    

     

    

     

      

     

      

      

    

      

     

     

     

     

個別写真、終わり。

 

 


冬の御嶽山を遠望

2017-02-02 13:51:08 | 写真

 よく晴れた空気の澄んだ日には名古屋からも御嶽山がくっきり見える。前日の雨で
空気が澄んだと思われる1月31日(火)に平和公園から御嶽山を遠望し、写真に
納めた。例年1月前後に同じ写真を撮っているので、噴煙が少し少なくなってきたと
感じる。

以上です。