名峰登山と草花

春から秋にかけて、登山と草花探索等を掲載。植物観察、世界歴史遺産巡り、庭園観賞、素人農業にもチャレンジ中。

チェンマイ寺院巡り_2

2020-01-27 20:17:18 | 海外・歴史遺産の旅

 1月8日はシリキット植物園を観察したが、午後は継続して個人ツアーの車で、チェンマイ市郊外の
寺院巡りを行った。郊外は徒歩散策は難しいため車で移動し、有名寺院(4寺院)を車で回った。
 回った寺院は①ワット・ウモーン、②ワット・スワンドーク、③ワット・チットヨート④ワット・クータオの4寺
である。それぞれの寺院の特徴や歴史を振り返る。

①ウモーン寺は初代ランナー王が都をチェンマイに建てた時に、スリランカから高僧を呼んで建てた寺で、修行の寺として使われてきた。

②スワンドークは花の意味で、大きな仏像が安置され、王様のお墓が白い仏塔として建てられ並んで
 いる。

③チェットヨートとは7つの仏塔の意味で、大きな仏塔の周りに低い6つの仏塔が配置されている。
 (クメール風とか?)

④クータオ寺院はビルマの王様を祀ったお寺だが、古来、タイとビルマは戦争を続けてきており、仲が
悪い。ビルマ僧の袈裟は赤く、タイ人の袈裟はオレンジ色。中で見かけた僧は殆ど赤い袈裟を羽織って
いた。参拝者は殆ど無く、境内は閑散としていた。

以上


チェンマイ寺院巡り_1

2020-01-26 12:11:17 | 海外・歴史遺産の旅

 1月10日、最後の日になったが、午前中、寺院巡りに出かけた。12時にチェックアウトなので、11時
にはホテルに戻る予定で慌ただしく、ホテルにタクシー(ソンテウ)を呼んでターべー門に向かった。
 今日は旧市街(城壁の内側)にある寺院を歩いて回ることにしていた。①ワット・チェディルアン、②
ワット・プラシン、③ワット・チェンマン、を順に回る。ターべー門につくと、ソンテウを下車し、西側に
進んだ。20分位で着く予定だ。途中に綺麗な寺があるので、英語読みでプレートを見るとワット・パンオン
と書かれていた。さらにしばらく歩くと、チェディルアン寺院に達した。
①チェディルアン寺院 チェディとは仏塔のある寺院、ルアンは大きな意味だそうで、名前は、大きな
仏塔のある寺院という、正にそのものの名前だ。(入場料40ThB)1291年第7代の王様が父の供養の
ために建てたこの仏塔は基壇の一辺が60m、塔の高さ80mという巨大な仏塔だ。1545年に大地震で
仏塔の一部が壊れ修復後、現在の形になっているようだ。しかし、大きい。ランナー王朝の時代は街の
中心部に大きなお寺を建設する習わしがあったそうで、それに従ったものと思われる。
次いで、次の目的地に向け西進し、ワット・プラシンに無事到着した。

②ワット・プラシン寺院 (入場料40ThB)
 プラシン寺院は、当初、リーチェンプラ寺院として第5代の王様が建立したが、7代目の王様がチェン
ライのプラシン寺院からプラシン仏像を持ってきて、この寺に納めたため、プラシン寺院と改名した
そうである。タイ観光庁の公式HPによれば、チェンマイで一番大きな寺院だそうだ。プラシン仏像は
礼拝堂の中に小じんまりと納められているようだ。また、礼拝堂の隣に聳える黄金色の仏塔が目映く
輝いている。さらに、裏側に回ると蛇の彫刻のある釣鐘が並んでおり、気になった。

③ワット・チェンマン寺院  (入場料:無料)
 ワット・プラシン寺院を出て、チェンマン寺院までかなり歩いた。途中にタイ航空の事務所があり、
覗いてみた。裏道のような静かな通りを歩いていると、チェンマン寺院の通用口に到達した。正門に
回り、入場した。ここは無料だった。正面には立派な本殿が鎮座して、客を迎え入れてくれる。時間が
無くなってきたので、急いで寺院の中を一周し、正門で帰りのタクシーを探した。ソンテウやタクシー
(乗用車)が玄関周りにたむろしており、タクシー運転手に聞くと、シャングリラホテルまで150ThBと
言う。少し高いと思案顔で言うと、120ThBに負けるというので、相棒と一緒に乗って帰った。ホテル
には計画通り、11時に到着した。


 
 寺院巡りはこれまでだが、ホテルでは12時にチェックアウトするため、急いで帰り支度をして、12時
5分前にチェックアウトした。ロビーで少し寛いだ後、ホテルの中華レストランでゆっくり昼食をとった。
15時から17時まではロビーで、旅行の記録整理やタブレット端末でメールなどの確認を行った。
今回はタイ用の安いUSIMカード(7日間、500円)を買ってきたので、道案内にGoogleMapを見る
ことができ、ホテル以外でも、どこでもInternet接続ができて、大変助かった。

 さて、ここで「チェンマイ寺院巡り_1」を終了するが、1月8日の午後にチェンマイ郊外の寺院巡りを
しているので、時間的に後先になるが、「チェンマイ寺院巡り_2」を、この後掲載する。

  参考として、寺院散策の市街マップを以下に示す。

以上

(お詫び)写真の編集中に、全写真が消えてしまい、再登録しました。悪しからず。

(新しいGooの編集ツールがよく理解できなかったためです。旧バージョンに戻します。)

 


古代遺跡を探る_3  -ギリシャ・デルフィー遺跡-

2019-07-15 13:01:28 | 海外・歴史遺産の旅

 6月7日は1日現地ツアーに申し込んで、ギリシャ世界の「ヘソ」(中心地)デルフィー遺跡の探索に 出かけた。アテネから180Kmのこの地に行くには、片道3時間を要した。車窓を漠然と眺めながら、乾燥 しているように見える荒野や、6月というのに残雪をいただく山並みなど、ギリシャの原風景を見ることが できて良かった。  デルフィー遺跡は古代ギリシャ世界のヘソと言われ、地中海諸国からアポロン神殿で行われる神託 (神のお告げ)を求めて、権力者達がお宝を持って集まったようだ。聳え立つ山塊を背景に厳かな古代・ 神殿を中心とする斜面の街は、集まった人々には冷厳新たかな神域と写ったことであろう。  遺跡は現在のデルフィーの街から数百m離れたところにある。  ツアーでは最初に、デルフィー博物館に入場し、出土品や建築物の解説などの説明を受けた。次いで 遺跡の見学に、坂道を上りながら廃墟となった遺構を見つつ説明を受けた。アポロン神殿と劇場跡を 見た後、自由行動となったので、遺跡最上部の馬車競技場まで150m程を登って見た。遺跡の競技場を 見物し、また高台からは厳粛な古代・デルフィー神域全体を見下ろすことができた。古代の王様達が 来たであろう地中海の港からの道を想像することができた。

以上です。

<参考> 海外旅行記 / ギリシャ   登録:2019.6.15

https://blog.goo.ne.jp/ms_blog_trecking120/e/d628f5b488fffe38e560fc2ec58512d0

 

 

 


古代遺跡を探る_2  -アテネの古代アゴラ-

2019-07-13 14:19:02 | 海外・歴史遺産の旅

 パルテノン神殿の見学を終えると、古代アゴラを目指した。地図を頼りに、時計回りに山を下り、山勘で 古代アゴラに向かった。途中、ローマンアゴラとハドリアヌス図書館の遺跡を横目に、写真を撮り、広場に 出るとそこがモナスティラキ広場であった。人通りの多い商店街を抜けると、古代アゴラ入口に達した。  アクロポリスが神殿を中心とした政治の中心であったのに対し、古代アゴラは商業を中心とした下町で あったようだ。古代アゴラが発見された時、遺跡の上に存在した300個の民家を移設したそうだ。遺跡を 大切に保存しようとする、ギリシャの人々の熱い思い、気概を知ることができる。  敷地内は荒野の形で保存されている、倒れた柱の残骸など色々なものが転がっている。勿論、主な 建造物はしっかり管理されている。アタロスの柱廊(古代アゴラ博物館)やヘファイトス神殿は素晴らしい。 ヘファイトス神殿はギリシャで最も保存状態の良い神殿として残っているのだそうだ。  

 

以上です。

<参考>ギリシャ・古代遺跡を探る_3 https://blog.goo.ne.jp/ms_blog_trecking120/e/51e51d571150f7021cd9ceee42ed0953

 


古代遺跡を探る   -アテネのアクロポリス、パルテノン神殿-

2019-07-11 11:19:46 | 海外・歴史遺産の旅

 古代ギリシャが地中海世界に進出し活躍したのは、紀元前8世紀から紀元前1世紀頃までで、その後は 台頭したローマ帝国に覇権を委譲する。そして、ギリシャが集めた財宝はローマの権力者達によって 掠め取られ、また、コンスタンチノープルに設立された東ローマ帝国に持ち出されてしまう。   古代遺跡の探索記事は、ここでは6月5日のゼウス神殿から始める。

 6月6日は半日観光で、市内観光とパルテノン神殿とアクロポリス美術館を見て回る予定で出発したが、 アクシデントのため、シンタグマ警察署に被害届を提出し、その後、日本人ガイドの案内で、アクロポリス 博物を見て回り、半日ツアーを終了した。午後にパルテノン神殿を独自に見学したが、事前に博物館で 知識を得ていたので、納得いく見学ができた。午後一番は暑さが厳しかったが、ツアーの観光客が少なく 素晴らしいパルテノン神殿の景色を堪能することができた。  この神殿の柱はドーリア式で、円柱を積み上げるために、中心に穴が空いており、そこに、上に積む 円柱の突起を差し込んで、精密に真っ直ぐに積み上げていき、10数本を繋いで、円柱が完成するのだ そうである。  パルテノン神殿を堪能した跡、アクロポリスの展望台に立ち、アテネ市街を見下ろした。近くにはこの アクロポリスと同じ高さのリカヴィトスの丘が聳えており、山頂に立つ教会か修道院かの建物も見える。 このアクロポリスと共に、アテネ市のシンボルのように思われる。  パルテノン神殿を通り過ぎると、エレクティオン(宮殿)があり、博物館に展示されている女人像の柱を 見ることができる。

ここで、登録を区切ることにしました。次は「その2」を投稿します。

 

 遺跡探索と併せて、ザッと、歴史年表をお復習いしてみたい。建物や出土品の製作時期を考える 参考となる。

 ①BC2000年頃にはクレタ(ミノア)文明が台頭して、次いでBC800年頃には都市国家が形成される。    第1回オリンピックが開催されたのは、BC776年である。  ②BC550年頃から隣国ペルシャ帝国から侵略され、征服されるが、BC490年からBC478年にかけて    戦われた、第1次、第2次ペルシャ戦争にて勝利(サラミスの海戦にて勝利)し、ディロス同盟を結成    する。  ③BC432年にパルテノン神殿が完成する。このBC4世紀頃から都市国家ギリシャは全盛期となる。    BC431年~BC404年に、アテネとスパルタでペロポネソス戦争が戦われ、スパルタが勝利する。  ④BC338年にマケドニアの支配が開始され、BC334年にはアレクサンダー大王が東征に出発する。    BC322年にアレクサンダー大王の死去により、帝国は分裂する。  ⑤BC31年にはローマ帝国が地中海の国々を統一し、BC27年にギリシャは属州となる。  ⑥AD323年にローマ帝国の首都がビザンチンに移され、395年にローマ帝国は東西に分裂する。  ⑦1453年にはオスマントルコ帝国により東ローマ帝国は滅亡され、ギリシャはトルコの支配となる。    以降、18世紀までトルコの支配を受ける。  ⑧1821年にギリシャの独立戦争が勃発し、1830年に独立を達成し、1833年にギリシャ王国となる。  ⑨その後、第一次、第二次世界大戦をへて、1973年にはギリシャ共和国となり、1981年にはEUへ   加盟し、現在に至る。

 この年表から、ギリシャが都市国家としてBC8世紀ころに台頭し、BC27年にローマの属州になる 頃までが、都市国家としてのギリシャの活動が華やかな時期であり、BC4世紀~BC1世紀頃が ギリシャの全盛期であったと考えられる。    

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<参考>ギリシャ・古代遺跡を探る_2 https://blog.goo.ne.jp/ms_blog_trecking120/e/e428569bc9cd2ec8d6c7896146385907

 

 

 

 

 

 


アユタヤ遺跡を歩く  -2019、タイ国-

2019-01-20 12:43:08 | 海外・歴史遺産の旅

 タイ国の古都アユタヤの遺跡を歩いて見てきました。沢山の史跡を見て回ること
はできませんでしたが、主な史跡を周り、歩きでないと見られない遺跡周辺の公園
や市場も見ることができた。

 アユタヤ駅に降り立つと、客引きのトゥクトゥクの勧誘を見向きもせず、駅を
後にした。アユタヤ王朝の古都は川に囲まれた東西4Km、南北3Kmの楕円形の中に
あり、歩いて回ることにした。レンタル自転車にすれば良かったとは、後で思った。
レンタル自転車を盗まれないようにするにはどうすれば良いかと分からなかった
からだが、史跡には鍵のかかる自転車置き場が設置されていた。
 アユタヤ駅から50m程西へ歩くと川があり、渡し船(5THB)で対岸の船着場
(チャオプロム市場)へ渡った。5分位西に歩くと朝市が開かれており、ここがチャオプロム
市場と分かった。少し見て回ったが、食べ物は何でもある感じだ。野菜、果物、魚
が目についたが、暑いところだけに魚はちょっと怖いなーと思った。

 

 ここから更に30分程歩くとマハタート寺院らしく、バスの群れが見えてきた。
やはり、歩いてくると汗がしたたってくる。冷房が効いた観光バスが羨ましくなる
ところだが、ぐっと我慢。初志貫徹だ。
 マハタート寺院では廃墟となった仏塔跡やガジュマルに埋まった仏像の顔を見て
写真に撮った。ビルマ軍にサンザン荒らされた後を見学したが、顔のない仏像や
破壊された仏塔なども良く片付けられ整地されて、見やすく、歩きやすくなって
いた。

 ここから次のプラシーサンペット寺院までは、マハタート公園を歩いて突っ切り、
公園の池や樹木等を観察しながら歩いた。途中のベンチで果物をたべ、簡単な昼食
を取った。広々とした良い公園だ。池の先に仏塔が見えている。それが次の目的地
だ。
 池を回りながら進むと、大きな仏塔が目の前に現れた。進入禁止となっている。
後で調べて分かったが、プララーム寺院で修復中のようだ。更に進み、車と観光バス
が一杯の駐車場の脇を進むとカラフルな建物が見えた。これが大仏を収容するプラ・
モンコンポピットと分かった。結婚式が行われているようで、民族衣装を着た人々が写真を
撮っていた。すぐ脇にプラシーサンペット寺院の入口があり、入場した。

 プラシーサンペット寺院は先のとがった仏塔が3つ並んで(王様のお墓らしい)
おり、遠くからもよくわかる。日本ならお城かお寺(大本山)に相当するのかなー
と思いながら、遺跡を見て回った。ここでも、ビルマ軍に破壊された顔のない仏像
が沢山並んでいたが、仏塔などの損傷程度はマハタートに比べると少ないように
見受けられた。アユタヤ王朝のサンペット宮殿(1353年)は、現在の三基の仏塔の
ある場所に建てられていたが、火災(1426年)で焼失し、新たな宮殿は、北側に
1448年に建設されていたが、ビルマ軍に破壊され基壇だけが残っているそうだ。
現在は、ムアンボラーン(サムット・プラカーン県)にサンペット宮殿が復元されている。

 

  次は、バンパイン離宮に向かうため、アユタヤ駅までトゥクトゥクを使った。
始めて乗るので心配したが、3台に確認したが、皆、同じ値段をいうので少し高い
と思ったが、150THBを払って乗ることとした。

 

-アユタヤ王朝と日本の関わり- 

 タイの古都、アユタヤは1351年にタイの王様、ラーマーティボーディー1世がアユタヤに
建都して、1767年にビルマ軍に敗れて放棄するまで、417年続いたようである。
 山田長政がタイ国に移り、また日本を脱出した豊臣方の浪人を集めて、3000人
とも言われる日本人部隊を率いて活躍し、アユタヤ王の信認を得て親衛隊長にまで
登りつめたのは、1600年代のアユタヤ朝である。不幸なことに王朝の内紛に巻き
込まれ、長政は1630年に外征にて討ち死にし、日本人街も破壊されてしまった。

以下、個別の写真を掲載します。 (こちらは、クリックすると拡大します)

     

      

      

 

     

  

      

      

      

     

以上で終わります。

 

 

 

 

 


ローマ近郊の歴史遺産を巡る_4  フォロ・ロマーノ、他

2018-06-02 07:43:06 | 海外・歴史遺産の旅

 4日目(最終日)は、迷っていたフィレンツェ行きをやめ、ローマ市内(古代ローマの遺跡)を
ゆっくり散策した。

 まず、フォロ・ロマーノまで歩き内部を見て回った。フォロ・ロマーノは庶民の街の跡であり、
続くパラティーノの丘は高官の住宅街・跡だったそうだ。フォロ・ロマーノから続く高台を目指す
とそこはパラティーノの丘だった。パラティーノの丘から見下ろすフォロ・ロマーノの眺めは、
為政者が市民の暮らしを見下ろしていたであろうと想像された。

パラティーノの丘には
アウグストゥスの家の跡も残っていた。高台の西側には広大な戦車競技場(チルコ・マッシモ)を見下ろす
ことができた。<映画「ベンハー」に出てきた戦車競技場。確かメッサラと戦闘した会場か?>

 次いで、初日に訪れたコロッセオに再度、入場した。見落とした箇所がないか確認し、写真を
撮った。ここから、ベネチア広場方面に歩き、カンピドーリオ広場、市役所(屋上見晴らし台)、
などに登った。次いで、ベネチア広場から大通り(ナツィオナーレ通り)をショッピングしながら
歩いて共和国広場に戻り、イータリという食品店で土産の食材、食品を買った。以上で、ツアー
の全行程を終了した。

以上です。

 

イタリア旅の総括 (興味のある方はご覧下さい)

 今回のツアーは、昨年のロンドン旅に続き、飛行機とホテルをツアーで予約する個人旅行の
ツアーで、半人前の英語、全く知らないイタリア語、という状態のなかでうまくいくか心配して
いたが、・・・結果的に何とかなった。
 事前準備が不十分な点はあったが、それでもインターネットでは色々調べた。本当に色々な
参考記事があり、助かった。
 インターネットで事前に日本で予約したチケットは、①新幹線切符3枚、バチカン美術館(
博物館)、コロッセオ等入場券である。日本語で予約でき便利であった。いずれも手数料が上乗
せされる。
 現地で購入したチケット類では①地下鉄バス乗車券4枚、②ベスビオ鉄道チケット2枚、③
ポンペイ遺跡入場券、④CITAバス一日乗車券、⑤ローマ植物園・入場券などだが、「地球の

歩き方」で調べておいたので、無事対処できた。
 現地の人達は親日的で、親切にいろいろと教えてくれた。が、言葉は殆ど通じなかった。(
尤もこちらの英語も半人前以下だし、やむを得ない)文字は日本語でローマ字読みするか、英語
の案内文を見て、1/4位理解できた。通じないときは日本語で単語を並べたり、英語の単語を
書いて聞いた。
 年寄り旅でトイレの心配をしていたが、ターミナルや観光施設にはたいてい付属しており、
助かった。それでもポジターノ散策では我慢できなくなり、道端のカフェ&ホテルに飛び込んだ。
が、客以外は駄目だと断られ、その場で生ビール(グラス)4eurを注文し、使わせてもらえた。
のども渇いていたし、ビールは冷たく美味しくて丁度よかった。
 反省点はポンペイ遺跡、バチカン美術館の歩き方をもう少し研究しておくと良かったと思った。
構内は広く一日かけて見るところを2、3時間で見ようとするのだから、準備不足でした。最低、
日本語のマップが必要でした。
 ホテルはテルミニ駅近くのAランクのホテルだったが、駅に近く何かと便利だった。テルミニ駅
のスーパーには食材を買いに何回か出かけた。個人旅は食事をとるタイミングがなかなか取れない
ので、スーパーやコンビニがあると便利だ。毎晩ディナーではお金もかかるし、時間が取れない。
 今回の旅は、行きたいところは全て回れたし、スリにも遭わず、無事に旅を終了したので、大変
結構でした。日本の空港で換えて行った現地通貨ユーロもローマ空港(フューミチーノ)で、使い
切ることができた。

 イタリア旅に長いことお付き合いいただき、ありがとうございました。終わり。

 <参考> 散策マップ

  拡大できます

<参考> ローマ近郊の歴史遺産を巡る

旅行記 https://blog.goo.ne.jp/ms_blog_trecking120/e/0ec4aefdc183d4eefb50b15257a9b459

植物観察 https://blog.goo.ne.jp/ms_blog_trecking120/e/3d734f9db1691ea5f4c6091b7f5ae706


ローマ近郊の歴史遺産を巡る_3 ーアッピア街道、他ー

2018-05-23 20:02:10 | 海外・歴史遺産の旅

 3日目の午後は、Mybusの半日観光「旧アッピア街道と水道橋、カラカラ浴場の見学」の
ツアーだ。
  Mybus事務所の前に共和国広場が有り、その向かいにディオクレティアヌス帝の浴場・跡と
S.M.デッリ・アンジェリ教会がある。浴場は古代ローマ時代のもので一度に3000人を収容
できたといわれる巨大なもので、その一部がルネッサンスの時代に教会として改修され、現在
に至っている。
 共和国広場の中心には4人の妖精が水を噴くナディアの泉がある。ローマには随所にこの
ような泉が見られる。トレビの泉、ナボーナ広場、スペイン広場など歴史遺産は泉を中心に
展開されているように見受けられる。
 さて、車に乗って(我々2人だけ)アッピア街道に向かった。古代ローマ市の城壁(ローマ
市へ)の出入口にはピラミッドがあった。エジプトのピラミッドを真似たものだろうが、左程
大きくは無い。城壁自体はなかなか頑丈そうで、10m位の高さがありそうだ。
 ここから、旧アッピア街道を車で走った。石畳の道でイタリアの半島を縦断していたようだ。
2、30分程で石畳の街道は終点となった。(街道は修復されていないということだろう。)
石畳には馬車の轍の跡が残っていた。

 

  次に水道橋・跡に案内された。水道橋は20Km程離れた山脈から引かれていた。この場所
では数mの高さがあり、水管の一辺は1mはある長方形だ。低いところはサイホンの原理で吸い
上げたというからよっぽど機密性があったと思われる。数十Km離れたローマ市まで水道橋を
通したのだからその規模の大きさが測られる。 
 ここからは再び、アッピア街道をとって返し、カラカラ浴場へ向かった。城壁の門をくぐり
古代ローマ市内に戻るとカラカラ浴場についた。今日の行程は少し距離があったので、個人で
回るのには無理があるかと思い、半日ツアーに参加したが、2人だけの専属ツアーとなり、
コスパは最高だった。実はガイドのS女氏は初日にローマ半日観光で案内していただいたガイド
さんと同じであり、お互いビックリした。

 さて、カラカラ浴場だが世界で一番巨大な浴場だそうだ。カラカラ帝により217年に完成
された。建物の中央には3つの巨大なホールその両側にはアスレチック施設や汗を流す部屋、
更衣室が左右対称に置かれた。その周囲には図書館、スタジアム、商店、講義室、等が並び、
社交場としての役割を果たしていたそうだ。床面の復元されたタイル張りの文様が素晴らしく
往事を忍ばせてくれる。

以上。

<参考>ローマ近郊の歴史遺産を巡る_4

  フォロ・ロマーノ https://blog.goo.ne.jp/ms_blog_trecking120/e/32665fd116e2b93fbdcce54ebd3a5dfa


ローマ近郊の歴史遺産を巡る_2 -ポンペイ遺跡-

2018-05-03 09:04:00 | 海外・歴史遺産の旅

 18日は目一杯の行程を組んでいた。まず早朝に新幹線(フレッチャロッサ)でナポリへ。ここで、
ベスビオ周遊鉄道に乗り換えてポンペイに行った。遺跡を2.5時間の予定で見て回ったが、
案内無しの2人旅なので途中でルートを見失っってしまった。見学予定のお目当て4カ所目
からは諦めて歩き回ることとし、気にいった場所で写真を撮った。ベスビオス火山を背景に
良い写真が撮れた。

 昼頃には駅に戻り、ベスビオ鉄道(12:17)に再度乗ってソレントへ向かった。ソレントでは
一時的に雨が降り、先行きが心配だったが、その後は回復した。ソレントでバス(SITAバス)の
一日券を求め、SITAバスに乗り換えポジターノに向かった。個人旅は自分で入場券を買ったり、
乗車券を買ったりするが、言葉がなかなか通じないのでハードルが高い。

 以上で、ポンペイ遺跡を終わります。

<参考>ローマ近郊の歴史遺産を巡る_3
  アッピア街道 https://blog.goo.ne.jp/ms_blog_trecking120/e/54de71f4602b70c86d714795cec561e5


ローマ近郊の歴史遺産を巡る_1

2018-04-24 19:21:14 | 海外・歴史遺産の旅

 2018年4月16日から7日間、ローマ、ナポリ近郊を巡る自作旅をしてきた。

 散策初日(17日)の午前はローマの半日観光バスに乗って、ローマの外観を見て回り、街の
様子を確認した。下車観光はコロッセオ、真実の口、トレビの泉、スペイン階段、パンテオン、
ナボーナ広場等だったが、比較的すいていたので予定以上に見て回ることができた。このツアー
では,ジェラート(イタリアン・アイスクリーム)を2回も食べてしまった。ツアーの最後はナボーナ広場となった。


 昼に解散したので、昼食後、歩いてサンピエトロ広場、バチカン宮殿へ向かい、14時
からバチカン美術館を見て回った。(駆け足で見学)準備不足、調査不足のため、目当ての
美術品をなかなか見つけられず、歩き回って疲れた。

以上で旅の1日目を終了します。

<参考> ローマ近郊の歴史遺産を巡る_2

  新幹線 https://blog.goo.ne.jp/ms_blog_trecking120/e/c26a4fb4bbf8d554a9f5b87ec2623959
  ポンペイ遺跡 https://blog.goo.ne.jp/ms_blog_trecking120/e/5e0efbc9fd7b945cdae433f4d0a5ae57
  アマルフィ海岸 https://blog.goo.ne.jp/ms_blog_trecking120/e/90116cc4a565457900acbe9111817fdf