ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



たとえば、行きずりで無差別大量殺人を犯したような人間って、仏の目からみたら、地獄に堕ちるのは間違いなしだよね。そこまで行かなくても、同じように救われない悪いやつなんて、世の中、いっぱいいるんじゃないの? なーんて疑問もってるる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『限りなく優しくあれ』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 自分に対して、「仏法真理に反することをすれば、もう極悪人であり、助からない。もはや、何の権利もなく、何を言うことも許されず、正しい生き方は許されない」と考えることは極端です。
 他人に対しても同様です。「仏法真理に反する生き方、言動をしたとしても、その人にも許される道が残されている。いや、その人は、必ずその道を辿っていくのだ」と考えてあげることは、極めて大事なことなのです。
 私は、人間らしさの根底にあるものとして、「許し」というものを大きく取り上げておきたいと思います。「許しがある」ということは、その前提として、「過ちはある。過つことはある」ということです。それがなければ許しもありません。
 自由がなければ、すなわち、人間が、みな杓子定規な行動をとるならば、おそらく地獄はなかったでしょう。地獄がつくられていくという危険を冒してまで、なぜ仏は自由を人間に与えたのでしょうか。
 それは、人間に大きな喜びを生ませるためです。
 人間には、創造の喜び、発見の喜び、選択の喜び、こういうものがあります。自由があるからこそ、新たなものを創造していくことができます。自由があるからこそ、試行錯誤をしながら、さまざまな発見をして、鋭い喜びを味わうことができます。自由があるからこそ、選択の喜びがあります。
 人間には、「善と悪とのあいだで揺れながら、最終的には善を選び取っていく」という喜びがあるのです。
(107~110ページ)

私たち人間は、誰もが、この世で生きていくにあたって、仏の目からは、多かれ少なかれ明らかな間違いを犯しつつ生きていて、堕地獄の危険を犯しているのだと思います。

それでも仏が、人間に「自由」を与えられたからこそ、人間には選択の喜びがある。

そして仏は、人間が善と悪とのあいだで揺れながらも、必ずや最終的には善を選びとる喜びを味わえるように、その間違いを許し続けておられる──。

だからこそ、私たちも、仏の目線を少しでも見習って、他人に対しても、そして自分に対しても、必ずや元の正しい道に帰ってくる可能性があると、やさしい目線で見てあげることだ、と。

大川隆法先生は、そういったこともここで教えておられるのではないかと私は思っているのです。

 

『限りなく優しくあれ』

 大川隆法著

 

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