『ひととき』1月号に「今を決めたあの時 立川志の輔 落語と真剣勝負」という記事がありました。
『ひととき』は東海道新幹線グリーン車に備えつけの雑誌で、「今を決めたあの時」は作家の吉永みち子さんが書かれています。
NHK「ためしてガッテン」の司会でも知られる志の輔さんは、落語家の家に生まれたのではないそうです。
富山県の出身で、明治大学に進学したときに、「東京は何でもある刺激的な場所、これからいろいろなものを見るのだ」とキャンパスを歩いていたら、落語研究会の看板と呼び込みに出会います。
誘われるままに教室に入ると、紫紺亭志い朝こと3年先輩の三宅裕司さんが熱演中でした。
「300人くらい学生がいたんだけど、みんないっせいに笑うんですよ。たったひとりで、こんなにたくさんの人を笑わせられるんだってことに驚いた」
小学校の頃から、人を笑わせることが好きで、富山県の弁論大会でも、真面目一方の弁論の中で審査員や会場を笑わせて優勝、新聞に載ったこともあったそうです。
大学では、授業よりも落語を優先し、30分の話を3日で覚え、末広亭(新宿)には11時半から夜の9時半まで居座って聞きました。
実家からは、大学卒業後は地元に帰って県庁か市役所に勤めてほしいと期待されていましたが、富山には帰らないと決めました。
就職の時期になって、いろいろ見るはずだったのが落語しか見ていなかったと、劇団「昴」に入団します。
アルバイトをしながら養成所へ2年通ったところで、演出家から「君は落語家になった方がいい」を言われます。
上野の本牧亭で、三宅裕司さんと渡辺正行さんと3人で素人落語会を行ったのを見ていたのでした。
劇団を辞めましたが、落語家にはならず、昼はバイト、夜は新宿のゴールデン街で飲むという生活をしていました。
「なんでその時も、落語家への道を歩まなかったか。落語家になるってことは、テープ聞いてその通りにやってお客さんが笑ってうれしいってだけではないよなあって具合に、自制心が働いちゃうのが、石橋を叩いても渡らない富山県人なんですかねえ」
たまたま隣で飲んでいた人から「ウチの会社に来ない?」と誘われ、テレビCMを作る会社に入社します。
人が集まって、すごいCMが出来上がっていくのが面白くて、これで仕事は終点かと思っていたそうです。
4年目に社長と部長に呼ばれ、そろそろ営業はどうだろうと言われたときに、「ぼく、辞めたいんですけど」と返事をしていました。
すでに結婚して家庭を持ち、サラリーマン人生をまっとうすると感じていたのに、心の中では落語家になりたい気持ちが無意識にあり、それがこのときに出たのだそうです。
「10年遅れるということは、早く入れば入るほど得になるこの世界のシステムでは何もいいことがないけれど、あの10年がなかったら、今の自分はないと思う」
会社を辞めた直後に、立川談志さんの「芸人生活30周年」の高座を見に行き、「芝浜」という古典に席から立てなくなるような衝撃を受けて入門を決めます。
「俺が落語なんだ。俺の人生が落語なんだ。見ろ!聞け!って、29歳の僕には感じられた。そうか、落語って人生なのか。その人まるごとなのかって感じさせられたライブだった。落語家は落語という作品を巧く面白くしゃべるという落語観をひっくり返されたライブで、見事にふっきれました」
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志の輔さんは、チケットを手に入れるのが難しい落語家のひとりなのだそうです。
「ためしてガッテン」の司会は14年目になるとのことで、サラリーマン生活を知っていらっしゃることが、あの話術に生かされているのではと思いました。