BOB DYLAN / THE FREEWHEELIN' BOB DYLAN
まさかのフジロックに出演するボブ・ディラン。という訳で60年代から70年代初頭、ロック草創期におけるディランの偉大さを探ってみたいと思います。今回はその第1回。
ボブ・ディラン、1941年5月24日ミネソタ州タルースの生まれ。
彼がウディ・ガスリーに憧れ、フォーク・シンガーに成るべくニューヨークへ出てきたのは61年の1月でした。19歳ですね。若い頃の彼はロックン・ローラーを夢見ていたそうですが、この頃既にR&Rは死に体に向かっていました。兵役を終えたエルヴィス・プレスリーはかつての輝きを失い、少女をツアーに連れ回したチャック・ベリーは逮捕、エディ・コクラン、バディ・ホリー、リッチー・ヴァレンスは既にこの世になく、若きディランが憧れたリトル・リチャードは引退し牧師になっていました。
さて、フォーク・リヴァイバルのメッカ、ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジに辿り着き、コーヒー・ハウスで歌い始めたボブ・ディラン。この時はまだ全くの無名だったはずですが、同年10月には大手のコロンビアと契約し、11月にはデビュー・アルバムの録音をしています。この下積みの短かさに驚かされますよね。彼を見初めたのはかのジョン・ハモンド。ベニー・グッドマン、カウント・ベイシー、ビリー・ホリデイなどを手掛けてきた大物プロデューサーです。この頃のボブ・ディランは、一口にフォークと言っても、リズム的な面も含め黒人ブルースからの影響が濃かったりもしますので、ブラック・ミュージックへの理解が深かったジョン・ハモンドは、そんなディランのユニークさを見抜いていたのかもしれませんね。しかし翌年リリースされた1st作「BOB DYLAN」はまったくヒットせず、会社からも「ハモンドの道楽」と揶揄されたとか。
ですがボブ・ディラン、次作でその才能を爆発させます。それが写真の2ndアルバム「THE FREEWHEELIN' BOB DYLAN」。63年のリリース。カヴァー曲が大半を占めた前作を反省してか、ほぼオリジナル曲で構成されています。ある意味、シンガー・ソングライターとしてのディランを語るなら、これがデビュー作と言っても良いかもしれません。「Masters of War」、「A Hard Rain's A-Gonna Fall」、「Talkin' World War III Blues」、「Girl From the North Country」、「Don't Think Twice, It's All Right」など、初期の名曲が詰まっています。ですが何と言っても「Blowin' In The Wind」でしょう。日本では邦題の「風に吹かれて」と言った方が通りが早いでしょうか。
いわゆるプロテスト・ソング風ですが、直接的に異議を唱えたり、煽動するものではなく、抽象的な表現を含むいくつかの問い掛けと、その答えは風に舞っている、というどこかフワッとした詩情に、若きディランの非凡さが伺われます。この曲はすぐにピーター・ポール&マリーにカヴァーされ、全米2位の大ヒットとなります。そして作者のディランも一躍注目されることとなります。
このピーター・ポール&マリー版「Blowin' In The Wind」がヒットした63年7月、ディランはニューポート・フォーク・フェスティヴァルに初出演します。ジョーン・バエズとのデュエットを含む複数のステージで歌い、その瑞々しいパフォーマンスで一躍主役の座へ躍り出ます。同年8月にはキング牧師の演説で有名な「ワシントン大行進」に参加して歌い、12月にはトム・ペイン賞を受賞するなど、まさにフォーク界の新しいヒーロー誕生を印象づける活躍ぶりでした。
そしてそんな溌剌とした活動とは裏腹に、この後もず〜っと続く、ディラン流の”つむじ曲がり”といいますか、”我が道を行く”感は、この20歳を超えたばかりの新人時代から全開なのであります。例えば、当初「THE FREEWHEELIN' BOB DYLAN」には、「Talkin' John Birch Paranoid Blues」という政治的な風刺曲が収録される予定でテストプレスまで作られましたが、上の判断により土壇場で別の曲と差し替えられるという騒ぎがありました。またそれと前後して、かのエド・サリバン・ショーへの出演が決まったものの、よせば良いのにその「Talkin' John Birch Paranoid Blues」を歌おうとしたという。案の定、局から変更を求められたものの、それを拒否。出演自体をキャンセルしています。トム・ペイン賞の授賞式でも、その場にいる人達の顰蹙を買うようなスピーチをしたとか…。なんて言いますか、パンキッッシュですよね〜?
まあ、ロックン・ロールが下火になったあの時代、プロテスト・ソングこそ最も過激な音楽だったのかもしれませんからね。その中心地だったグリニッジ・ヴィレッジは、当時最も進歩的で、最もラジカルな空気に溢れていたはずで、音楽生活の第一歩として、そこを目指したボブ・ディランの嗅覚の鋭さ、いや、選ばれた者の本能とでも言うべきでしょうか? またそこでジョン・ハモンドに見いだされるという運命、やはりこの時からボブ・ディランは、どこか違っていたのでしょう。
さて、ロックンロールに憧れ、フォークで成功を掴んだボブ・ディラン。彼が諦めたロックン・ロールは、遠く海を渡り、イギリスで新たな芽吹きを迎えます。ディランが「Blowin' In The Wind」で注目を浴びたと同じ63年、イギリスではリヴァプールからザ・ビートルズが「PLEASE PLEASE ME」でアルバム・デビューを飾り、チャートを翔上がります。そして一説によりますと、パリ公演の際、ポール・マッカートニーがDJからディランのこの「THE FREEWHEELIN' BOB DYLAN」を手に入れたとか。まあ、ビートルズがいつディランを知ったかについては諸説あるかと思いますが、とにかく、ビートルズがディランを知ったことで、時代は大きく動いていきます。
という訳で、次回は「65年のボブ・ディラン 〜ロック誕生〜」です。(いつ書くか分りませんけどね…。)
まさかのフジロックに出演するボブ・ディラン。という訳で60年代から70年代初頭、ロック草創期におけるディランの偉大さを探ってみたいと思います。今回はその第1回。
ボブ・ディラン、1941年5月24日ミネソタ州タルースの生まれ。
彼がウディ・ガスリーに憧れ、フォーク・シンガーに成るべくニューヨークへ出てきたのは61年の1月でした。19歳ですね。若い頃の彼はロックン・ローラーを夢見ていたそうですが、この頃既にR&Rは死に体に向かっていました。兵役を終えたエルヴィス・プレスリーはかつての輝きを失い、少女をツアーに連れ回したチャック・ベリーは逮捕、エディ・コクラン、バディ・ホリー、リッチー・ヴァレンスは既にこの世になく、若きディランが憧れたリトル・リチャードは引退し牧師になっていました。
さて、フォーク・リヴァイバルのメッカ、ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジに辿り着き、コーヒー・ハウスで歌い始めたボブ・ディラン。この時はまだ全くの無名だったはずですが、同年10月には大手のコロンビアと契約し、11月にはデビュー・アルバムの録音をしています。この下積みの短かさに驚かされますよね。彼を見初めたのはかのジョン・ハモンド。ベニー・グッドマン、カウント・ベイシー、ビリー・ホリデイなどを手掛けてきた大物プロデューサーです。この頃のボブ・ディランは、一口にフォークと言っても、リズム的な面も含め黒人ブルースからの影響が濃かったりもしますので、ブラック・ミュージックへの理解が深かったジョン・ハモンドは、そんなディランのユニークさを見抜いていたのかもしれませんね。しかし翌年リリースされた1st作「BOB DYLAN」はまったくヒットせず、会社からも「ハモンドの道楽」と揶揄されたとか。
ですがボブ・ディラン、次作でその才能を爆発させます。それが写真の2ndアルバム「THE FREEWHEELIN' BOB DYLAN」。63年のリリース。カヴァー曲が大半を占めた前作を反省してか、ほぼオリジナル曲で構成されています。ある意味、シンガー・ソングライターとしてのディランを語るなら、これがデビュー作と言っても良いかもしれません。「Masters of War」、「A Hard Rain's A-Gonna Fall」、「Talkin' World War III Blues」、「Girl From the North Country」、「Don't Think Twice, It's All Right」など、初期の名曲が詰まっています。ですが何と言っても「Blowin' In The Wind」でしょう。日本では邦題の「風に吹かれて」と言った方が通りが早いでしょうか。
いわゆるプロテスト・ソング風ですが、直接的に異議を唱えたり、煽動するものではなく、抽象的な表現を含むいくつかの問い掛けと、その答えは風に舞っている、というどこかフワッとした詩情に、若きディランの非凡さが伺われます。この曲はすぐにピーター・ポール&マリーにカヴァーされ、全米2位の大ヒットとなります。そして作者のディランも一躍注目されることとなります。
このピーター・ポール&マリー版「Blowin' In The Wind」がヒットした63年7月、ディランはニューポート・フォーク・フェスティヴァルに初出演します。ジョーン・バエズとのデュエットを含む複数のステージで歌い、その瑞々しいパフォーマンスで一躍主役の座へ躍り出ます。同年8月にはキング牧師の演説で有名な「ワシントン大行進」に参加して歌い、12月にはトム・ペイン賞を受賞するなど、まさにフォーク界の新しいヒーロー誕生を印象づける活躍ぶりでした。
そしてそんな溌剌とした活動とは裏腹に、この後もず〜っと続く、ディラン流の”つむじ曲がり”といいますか、”我が道を行く”感は、この20歳を超えたばかりの新人時代から全開なのであります。例えば、当初「THE FREEWHEELIN' BOB DYLAN」には、「Talkin' John Birch Paranoid Blues」という政治的な風刺曲が収録される予定でテストプレスまで作られましたが、上の判断により土壇場で別の曲と差し替えられるという騒ぎがありました。またそれと前後して、かのエド・サリバン・ショーへの出演が決まったものの、よせば良いのにその「Talkin' John Birch Paranoid Blues」を歌おうとしたという。案の定、局から変更を求められたものの、それを拒否。出演自体をキャンセルしています。トム・ペイン賞の授賞式でも、その場にいる人達の顰蹙を買うようなスピーチをしたとか…。なんて言いますか、パンキッッシュですよね〜?
まあ、ロックン・ロールが下火になったあの時代、プロテスト・ソングこそ最も過激な音楽だったのかもしれませんからね。その中心地だったグリニッジ・ヴィレッジは、当時最も進歩的で、最もラジカルな空気に溢れていたはずで、音楽生活の第一歩として、そこを目指したボブ・ディランの嗅覚の鋭さ、いや、選ばれた者の本能とでも言うべきでしょうか? またそこでジョン・ハモンドに見いだされるという運命、やはりこの時からボブ・ディランは、どこか違っていたのでしょう。
さて、ロックンロールに憧れ、フォークで成功を掴んだボブ・ディラン。彼が諦めたロックン・ロールは、遠く海を渡り、イギリスで新たな芽吹きを迎えます。ディランが「Blowin' In The Wind」で注目を浴びたと同じ63年、イギリスではリヴァプールからザ・ビートルズが「PLEASE PLEASE ME」でアルバム・デビューを飾り、チャートを翔上がります。そして一説によりますと、パリ公演の際、ポール・マッカートニーがDJからディランのこの「THE FREEWHEELIN' BOB DYLAN」を手に入れたとか。まあ、ビートルズがいつディランを知ったかについては諸説あるかと思いますが、とにかく、ビートルズがディランを知ったことで、時代は大きく動いていきます。
という訳で、次回は「65年のボブ・ディラン 〜ロック誕生〜」です。(いつ書くか分りませんけどね…。)