哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

性善説と性悪説

2013-08-04 19:01:15 | 哲学
性善説か、性悪説か、という二者択一のような話にとりつかれていたことがある。本の帯に「性善説か、性悪説か」と書いてある『右手に論語、左手に韓非子』(角川SSC新書)という本を最近読んでみた。論語が性善説であり、韓非子が性悪説だそうだが、この本の著者は、現代の日本は性善説が残っている社会だが、外国や中国などは性悪説であるとしている。基本的に性善説は、人を信用する前提なので、脇が甘くなってしまうが、性悪説を前提にするならば、人は利益に執着するとみて統治することになるという。著者の立場は、性善説の良い部分を残しながら、性悪説で補完するという考えのようだ。


確かに、日本の社会は外国と比較して、性善説が前提であることを感じる場面は少なくないのではないか。田舎では、よく無人販売店があったりするし、そこまでではなくとも、自動販売機の多さに外国人は驚くという。しかし一方で、刑法をはじめとする法治国家という存在そのものが、すでに性悪説を前提としていると言える。刑法とその効力が整備されなくては、犯罪がなくならない社会ということであれば、性悪説を前提としなければならないのだろう。しかし、法律でこそ社会の安定が図れるとする性悪説に対して、そうではないやり方で社会の安定を目指すのが性善説であるから、日本の社会において性善説が残っているとするならば、その背景と歴史はよく自覚しておきたいものだ。論語が性善説であり、それが昔から読み継がれてきたことが土台にあるならば、韓国も中国も同じ土台ではないのだろうか。孔子の生誕地は世界遺産にもなっているとのことなので、性善説の土台が影も形もないわけではないはずだ。


池田晶子さんは、人は善を知れば善をなす存在としているのだから、性善説ともいえるが、悪を知って悪をなす人はいない、と言っているので、決して性悪説の対立概念として言っているのではない。


「「性善説」という言い方は正確ではない。何かうまい言い方はないものかと、かねてから思っている。「性悪説」に対して「性善説」があるのではない。人は自分を知ろうとすることによって自ずからそうなるというそのことが、言ってみれば、「善」ということなのである。誰もわざわざ「自分にとって」悪いことを、するはずがないからである。」(『あたりまえなことばかり』「善悪を教えるよりも」より)


つまり、悪が定義として自分に悪いことなのだから、人は悪を行うはずはなく、それでも悪を行なうのは、それを悪と知らないからなのだ。だから、池田晶子さんの辞書には、性悪説は定義上ありえないことになるのであろう。

通常の性悪説の悪は、利益に執着して犯罪でも起こすという趣旨であり、社会にとって悪でも自分にとっては善いと考える行動性向を指すのであるから、そもそも善も悪も相対的な意味となってしまう。池田さんは、そのような言葉の意味が相対的となるような定義は採らない。自分にとって善いということは、それは社会にとっても善いことでなければ、それは善とはいえないのだ。