哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

葬式

2012-10-14 03:17:30 | 時事
近しい身内の葬式があった。亡くなった者も、つい直前までは普通に電話で話していたが、突然の心筋梗塞で亡くなったと、医師には推定された。動かなくなり、化粧をされた遺体の顔を見たとき、その人物がもはやこの世に存在しないということの意味を、未だ目の前に残っている顔を見る限りでは、すぐには受け入れ難い気持ちにもなる。

「死は存在しないが、死体は存在する。」というのは池田晶子さんの謂いであるが、確かに死は無であるから存在しない。そして、死体が本人の姿で残っている限り、存在しない「死」を直接捉えることはできず、しかも生前の姿と重なるから、死んだということ自体がなかなか心情的にも受け入れ難い。結局、死体になった状態だけでは動かない体があるにすぎなから、まだ死の完遂ではなく、死体として何らかの処理(具体的には荼毘に付すのが決定的だろうが)をしない限りは、生きている者は死を捉えきれない。池田晶子さんも同じようなことを書いている。


「死ぬということと、死体になるということは、よく考えると同じことではない。・・・死んだ本人が死んで存在しなくなったのかどうか、生きている我々には、やはりわからないのである。
わからないからこそ、葬式をするのである。考えるほどに、死ぬとはどういうことなのか、その人は死んだのかどうか、わからなくなる。それで、わからない死を、わかったことにするために、葬式が要るのである。わからないのになぜそれが可能かというと、そこに死体があるからである。物としての死体がそこにあるから、それをもって、その人が死んだということに、とりあえず「する」のである。その意味では、死とは、社会的な決め事以外のものではない。
このように、葬式とは、死んだ者の問題ではなくて、生きている者の問題なのである。」(『41歳からの哲学』「再び、死んだらどうなるー葬式」より)


亡くなった近親者は、いかにも葬式らしい装いが嫌だったそうで、祭壇に菊の花は飾らず、棺も色つきの派手なものになっていた。死んだ本人が見るわけでもないのであるが、生きている者にとっては、葬式の最中もまるで本人が生きているかのように物事を決めていく。そして、棺の蓋を最後に閉める時には、最後の別れとして遺族は遺体と向きあうのだが、遺族の感情はここで最も高ぶってしまう。やはり、死体が生きていたときの姿で現存する限りは、死んだ本人はまだ完全には居なくなっていないように思えるのだ。それでも、最後の別れとして死を受け入れなければならないから、感情が最も高ぶる気持ちも理解できる。

そして、生きている者は葬式後、戸籍関係をはじめ多くの手続きをしなくてはならない。それが終わらないと、社会的には死んだことにはならないのだ。先ほど、池田晶子さんの文章に「死は社会的な決め事以外のものではない」とあったが、法治国家における死というものは、それこそかなり形式的なものだということを痛感する。