かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

男はつらいよ

2013-03-07 06:28:09 | わがうちなるつれづれの記

 何日か前の晩、妻と二人テレビで映画を観た。

山田洋次監督「日本映画100選」の最終回、「男はつらいよ」初回作品。

 

 はじまりのバックミュージックが流れはじめると、とたんに寅さんの

世界に入ってしまうのを感じる。ファンなのだ、熱いファンなのだ。

 初回を観たのは、新宿の深夜映画じゃなかったかなあ。

 ときどき映画館で夜を過ごした、あの時代が蘇る。学生運動に陰りが

みえたころだったかなあ。なにをやっても不如意でさいごの最後は

じぶん一人という感傷に浸っていた。


 あの柴又の商店街、だんご屋さん、そこのおじさん夫婦、店の裏の

庭、印刷屋の工場、職工さん、タコ社長。じぶんが育ってきた商店街や

そのなかのガラス屋の光景が重なってくる。

 映画のなかのお店、茶の間、街の風景、小道具もこころにくいほど

さり気なく、暮らしのありのままを感じさせてくれる。

 

 渥美清の寅さんには、妻と二人、ほとんどは笑っていた。

前田吟とさくらの結婚式のとき、志村喬演じる父の挨拶ではつい泣い

てしまった。


 好きなのだ。この映画も、渥美清も、登場人物みんな、行き届いた

舞台背景、どれも。

 だいいち、寅さんとぼくは、気持ちが通い合う感じもあった。

 それが、40歳ごろ、痩せぎすのカラダが太りはじめた、

 だれか、「寅さんに似ている」と言う人がいて、「そういえばそうね」と

いう人もいて、とうとうたくさんの人が集まってくる舞台で寅さんを

演じることになった。

 

 

 演じるといっても、あの帽子とブレザー、腹巻、それに皮の

ケースをもって舞台を歩くだけ。それだけで、なんだか受けていた。

寅さんのセリフをひとこと言っただけで大爆笑。

 あれって不思議。舞台に立つ前は、照れて緊張して、いざ出てしまっ

ても足がガタガタ震えていたのに、みんなのリアクションにはうれしい

気持ちになる。

 よーく、ぼくの内面まで知っている人は、「ほんにんが固くなっている

ので、面白くない」とかいわれたが・・・

 

 どうしてそんなことしようとしたか、分からないことってある。

 小学生3、4年ごろだったか、仲間と遊ぶだけでなく、一人、ラジオの

前で落語を聞く楽しみがあった。新聞の番組欄に落語があると赤えんぴつ

で印をしておき、その時間にはラジオの前でクスクス笑っていた。

 小学校6年のころ、じぶんがシナリオを書いて、友だちと漫才をやった

記憶がある。人を笑わせるのがおもしろい、とおもっていたかなあ、

とまでは覚えている。でも、なんで人を笑わせたいとおもったのか、

これはわからない。

 

 「男はつらいよ」はさまざまなことをおもいださせてくれる。

 今回観て、あとでふと出てきたこと。

 寅さんとさくらの両親は、映画ではイメージすら出てこない。

 それなのに、寅さんやさくらを立ち居振る舞いを観ていると、この兄弟

のなかに、どこかにやさしい母のまなざしがしっかり根付いているのでは

ないか。

 舞台の背景や登場人物一人ひとりに行き届いた心配りがされている、

山田洋次監督のまなざし、それも感じた。


 

 

 

 

 

 


折り紙の花束

2013-03-05 06:57:38 | 家族あれやこれや

 じいちゃんへの孫の誕生日プレゼント。

 折り紙の花束とじいちゃんの似顔絵。

 

  翌日の夜、娘と孫たちがお風呂にはいりにくる。

 小1の晴空が、「きのうのプレゼント、飾ってあるか」と聞いてきた。

 「ああ、貼ってあるよ」と見せてやった。

 「それじゃない」と言う。

 

 折り紙の花束を飾れ、という。

 「これ作るの、きのう時間、たくさんかかった」と晴空。

 「風空の、もっときれい。花がたくさんある」

 

 花束をよく見ると、花一つひとつ、風友や晴空が気持ちを

込めた、花びらであり、それが一輪の花になり、花束に

なっている。

 本人たちが、じぶんで納得できるまでこころゆくまで、つくった

らしい。

 人は誰でも芸術家の素養をどこかに湛えている、かも。


<孫娘、学校休む>

 その次の夜、わが家に来て、孫娘の風友はお風呂に入らなかった。

 安楽椅子に座って、テレビを見るともなく見ていた。

 娘と弟の二人だけ、風呂に入って、その夜は帰った。


 翌朝、登下校のときの笛を忘れていたのでババが電話した。

きょうは、学校休むという。

 「バッチリ勉強して、間違えることが好きじゃない子が、自分

から休むなんて。でも、それぐらいでいいじゃないか・・・」ぐらいに

おもっていた。


 娘が車を借りに来た。

 「いまから、風友の服を買いに行くんだあ」と娘。


 その日、風友が学校から帰って来てからの顛末を聞いた。

 風友が帰ってきたとき、朝の片付けが出来ていなかったので、

「あんた、ちゃんと片付けして・・・」と言ったら、なにかずんずん

下向いて、内に籠っていく風だった。

 「ママが言ったことで、そんな感じになるの?」と娘が聞くと、

「そういうじゃない」と言う。

 どうも、学校で友だちに「嫌われたくない」とおもっていて、

うまくいかないことがあったらしい。

 娘は、風友の気持ちを知って、「どんなことだったの?」と

聞くと、大泣きしながら、気持ちをママに出したという。


 泣いたあとは、すこし晴れた感じだった。

 「おいしいもの、食べに行こっか」と回転寿司に行った。

 ガラリ、元気になったようだ。

  「夜、おじいちゃんとこ、お風呂行くか?」と聞いたら、

「行く」といって、昨夜来たという。

 娘。「安心したかったのかな」


 娘。「ああ、ほんとにこちらの受けとめ方で、風友を一人ぼっち

の気持ちに追い込んでしまったかも」

 「そうだね、風友のこころのなかに、どんなことがあっても

ママは受けとめてくれる、というのがあったら、一人ぼっちを

こわがらなくなるかも・・」ぼくの感想。

 「毎回、やりながら、見ていくのかな」と娘。





 


 

 

 

 

 


ウリさん,元気ですか?

2013-03-05 06:32:35 | アズワンコミュニテイ暮らし

 ウリさんは、伊与田宅で暮らしている。
 2月14日に日本の鈴鹿に来たんだから、もう2週間を越えた。



 アズワンコミュニテイにあるお弁当屋さんに朝7時頃から、

午後4時ぐらいまで通っている。

 ベルトコンベアーを使いはじめたとき、戸惑っていないか
心配したけど、おっとどっこい。どうも、おもしろがっている
みたい。



ウリさんのフェースブックから。
 ーーコンベアが動く前。とても活発な会話。笑いもわいてくる。
   動き出す。
   「えー、魚が入っていない」と軽い声。
   隣の人が足りないトレーを隣にまわす。

   他の人の言っていることに気をとられるときもある。
   「いまは、漬物と梅干!」と集中する。

   なんかゲームをしているみたい。

 日本語も猛勉強している。
 夕食後は伊与田さんを先生に、分からないことの質問攻め。
伊与田さん、そのエネルギーに打たれて、うれしそう。
 週に2回、ドイツ語が多少できる百合子さんも夕方、日本語
の勉強のお手伝い。


 それでも、疲れてやしないか、と聞いてみるが、そんな
感じではない。
 岸上典子さんが、「明日は900個あるの」と言ったら、「それじゃ
6時半からでも行く」と腕まくり。


 昨夜、わが家で百合子さんと夕食。すき焼き。
ドイツのカーニバル、春到来を喜ぶまつり、木の仮面でパレードする
という。さっそく、その様子、アップしてくれた。
  
 きょうの夕方、亀山の温泉に誘ったら、”アドベンチャーね”と行く
という。わが夫婦と車で。雪がちらついていた。
温泉は「あつい!」「また、行きたい?」「行きたいわ。カラダにいい」

 ドイツの友人からメール。ドイツの内観が終わったところ。「ウリさん、ありがとう。明るい気持ちになった」らしい。ウリさん、「わたしも、うれしい」
 「もうすぐ、春・・・ですね」ウリさん、日本語猛勉強。


 たまたま伊与田宅に泊まった郡山さんとウリさんの名前談義。

 


 翌日は、ウリは略であって、ウリッケだという。

 「宇理気」は、どうか。これは、漢字の勉強。

 

 

 

   


たましいが太る

2013-03-03 06:44:39 | アズワンコミュニテイ暮らし

 人は誰でも、コトバとか、なにかで表現しなくとも、その人が

生きた分だけ、尽きせぬ豊かさがあるようにおもう。

 隣にいてくれるだけで、表出されているともいえるのか。

 

 牛丸信くんから、信州児童文学会誌「とうげの旗」に牛丸仁追悼が

掲載されていると連絡があった。

 昨年の1月亡くなられて、1年が過ぎた。

 牛丸先生の旧知の人たちの追悼文を読みながら、いまさらながら

恵まれた仲間のなかで、おもいきり、ゆっくり、生きることの深さを

見つめてきたんだなあ、と感じた。

 深いところを見つめた分、心の底からわいてくるものを表出しない

ではいられなかった・・・それが子どもや周囲の人に伝播した。

 


 最後の1年を息子が暮らす鈴鹿で過ごした。

 その間、鈴鹿カルチャーステーションで毎月1回、文学講座をして

くれた。3・11以後は宮沢賢治の童話を読んだ。聴講の人がどんどん

増えていった。地域の人にも口伝えで。


 2011年12月18日が、最後の講座になった。

 椅子に座っているのも、えらかった。途中、床に座ったりしながら。

 賢治の「永訣の朝」が主題になった。

 この日の講座は、動画で撮影され、ネットで配信されていた。

 

 今回の追悼号で、信州文学会友人代表の高橋忠治さんが書かれて

いた。

 ーー あなたはこう言ったね。

    「最終章は死ではない。生きることです。わたしは人生の最終章に

    来ているが、喜びに満ちている。

     それは周りの人のおかげです。息子夫婦、特に嫁さん。どれほど

    お世話かけたことか。

     また、わたしに文学を語る場を与えてくれたカルチャーステーションよ。

     こうしてわたしは、今日のの物語の最終章を結ぶことができます。

     有難う。有難う」

     あなたは、己の最終章を「有難う」の感謝で結ばれた。


 そのとき、先生は込み上げてくるもので、声をつまらせていた。

 



 息子信くんの追悼文も、父の内面に触れていて「そういう見え方

してるんだ」と、はっとするものがあった。

 主治医の先生が、信くん夫妻に「あとはお父様の残された体力

次第です」と告げた。

 「涙を浮かべながら言う主治医の言葉は父との関係が医者と

患者以上のものであったことを感じさせられました」と信くん。

 主治医は、診察のときは、「次回の文学講座は?」と聞いて

カルテにそれを書き込んでくれる、と先生は行っていた。

 二人の間にはコトバにならないけども、なにか感応があったのか。


 最後の講座のとき、手書きの詩を一人ひとりに手渡して

くれた。


 この詩から、親友の高橋忠治さんが追悼文で感応されていた。

 

     ああ、音がする、音がする。

     牛丸仁の音がする。

     たましい太る音がする。



 




 

 



 

 

 

 


どこからはじまるか・・・

2013-03-01 05:26:29 | サイエンズ研究所のある暮らし

 と書いて、「どこからはじめるか・・・」という表現もでてくる。

どちらが、いまのじぶんにシックリくるか、渾然としている。

 

 サイエンズ研究所のサロンが月一回ある。

 研究所が出した「やさしい社会2ー親しさで繋がる社会とは」を

輪読している。

 「やさしい社会2」の構成は、二部に分かれている。

 一部 やさしい人間学

 二部 やさしい社会づくり

 

 いまは二部にある18章を参加者の提案でランダムに輪読

している。

 2月は。「16章 社会の核心」 を読んだ。

 

 「内在する対立感情」がテーマになっている。

 コトバにすると、疑い・警戒・怒り・憎しみ・嫉妬・優越感・

劣等感・・・など。

 実際は、日常の暮らしのなかで、周囲の人や事物と

コミットしているときに、じぶんのなかに起こること。

 コトバにはならなくとも、「あっ」とか「うっ」とか「モワー」とか

立ち上がってくるもの。ちょっと、そこに関心をもっていないと、

頭のはたらきのほうが大きくて、素通りしやすいもの。

 だいいち、そんなことにかまけていたら、暮らしがはかどらない。

 静かに焦点を当てて、その「あっ」とか「うっ」とか「モワー」は

どんなところから、どんなこころの状態から出てくるのか、と

じっくり見てみないと、見えないもの。そんな感じがする。

 

それが「社会の核心」・・・「やさしい社会の核心」とはどういうことか?

 

 もし、そういうところに関心がいったら、じぶんの内面はもちろん、

周囲の人たちの内面にも関心がいくのではないか。

 じぶんの内面のことは、ちょっと冷静になれば、じぶんでなんとなく

分かる。

 「こころから楽しいのか」「楽しく振舞っているのか」

 じぶんはやる気で意欲的にやっていて周囲からもあてにもされて

いるが、どんなこころの状態でやっているか、など。

 他の人の内面は、そう簡単に「そうだ」と言えないかも。


 「どこからはじめるのか」

 「どこからはじまるのか」


 じぶんのことを振り返ってみても、周囲環境のなかで、「これを

やりたい」「ここを考えたい」など、目標や目的を掲げて、あるいは

描いて行動している。じぶんで「こうしよう」というところに重点が

置かれる場合が多いけど、そうしようとしているじぶんの本心、

心からの願いかどうか、ここに目を向けているかどうか?


 「さて、どうなんだろう?」

 「そこから、はじめるのか?」


 目標や目的に関心がいっているので、「えっ」という気持ちが

でてくる。


 じぶんの周囲社会に目を向けてみると、あれもこれも、問題

だらけに見える。なんとかしなくては、という気持ちも湧いてくる。

 問題があるから、なんとかする。

 これ、一辺倒だよな。

 

 「じぶんの本心、心からの願い」そこからはじめる・・・


 問題山積みの社会。

 じぶんの内面の願いのなかで調べて言ったら、実際の社会、

人と人の間に、問題というのはあるか。

 問題としている根源は、仲良く暮らしていきたいのに、なぜ

そうできないのか?という問いのなかから・・・?

 実際はどうなっている。

 「あえて親しくなろうとしなくても、もともとも人と人の自然な

繋がりに親愛の情が湧くもの」ではないか。

 

 親愛の情を妨げるもの、それと逆の心理状態や感情が、それ

ぞれ、育った環境や体験から形成されている。その人のせいとは

言えないもの。

 そういう対立感情がよーく観察したら、自他のなかに内在している

場合が多いのでは。

 

 サイエンズ研究所サロン、「やさしい社会の核心」の輪読、読後感。

ーーここで重要なのは、対立感情を内在していること自体よりも、

  満足して喜んだり、やりがいを感じていたり、努力して成果をあげ

  ている等の現象面に好感を抱いて、その人の内面を見ようとしして

  いない点です。

    そして、表面化した対立感情への対応や、不平・不満

  が出ないように対策を講じることがかえって、内在する対立感情を

  助長していることも多いのです。

 

 ”助長している”・・・じぶんと他がどうなっているか。

 「あの人は、対立感情がある」とか「威張っている」とか「幅っている」

そんなに見えて、実際もそういう現れがある場合もあるかも。

 そのときのじぶんのありよう。

 どういうこころの状態で、そういう事態を見ているのか。

 

 「どこからはじめるのか?」

 「どこからはじまるのか?」