かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

敬老の日

2014-09-16 07:13:01 | わがうちなるつれづれの記

9月15日は旗日なんだね。祝日の感覚を失っている。

敬老の日というのは、テレビなどでチラチラ聞いて、「そうか」と

思うが、何があるわけでもない。

「65歳以上が日本の総人口の25%。3000万人。4人に1人」

今年67歳。その数字の中の一人だ。

何か社会問題になっている印象。

 

晩ごはんのあと、差し歯が抜けた。

上下、入れ歯である。その入れ歯を支えている差し歯である。

かかり付けの歯医者さんに電話したら、「今、スイスだよ」という。

「それはそれは。ゆっくり味わって来てください」というほかない。

何か笑えてきた。

 

老いや病がだんだん自覚させられる。意識とはべつに。

カラダの自然的な老衰のほかに、若いときからの生活の不摂生や

ストレスなど積み重なってきた結果だろう。

 

急いで歩くと息が切れる。少しでも傾斜があると、苦しい感じになる。

電車に乗るときは、電車に合わせて乗るというのが難しい。

乗れる状態のときに着いた電車に乗る。これが、無理がない。

自分のペースというのに従うしかない。だんだん思い知らされている。

 

晩ごはんのあと、急激にカラダがだるくなり、眠くなる。

食べる前は、今夜は、「時間があるので、これをしようか」と心積り

しているが、そうなったら「今日は、まあいいかあ」となる。

それで布団に横になると、極楽である。つい、まどろんでしまう。

 

「まあ、いいかあ」って、どんな感じかなあ?

20年以上前、友人の母上の臨終に立ちあったことがある。

夫や娘、親族に囲まれていた。

母上から、最期、「もういい、もう行く・・・」と聞いた。

それから息を引き取った。

多分、この頃の「まあ、いいか」は遠い近いはべつにして、

そういう世界につながっているかもしれない。

 

昨年ぐらいから、「理想の暮らしを語る会」というのを65歳前後の

人ではじめている。

はじめは「老後を語る会」と思っていた。

発起人の一人中井さんと話していていた。

「老後っていうけど、産まれてから一生のなかの今だからなあ。

老後だけ、切り取るのは不自然だよね」

「いつの時期だって、どんな暮らしがしたいか、理想ってあるよね」

「そう、こんなふうになりたいとか」

「そうだったら、思い切って”理想の暮らしを語る会”って、

言っちゃおう」

 

いまから思うと、そう言ってはじめたのは、なかなかよかったん

じゃないかと思う。

 

「ゆいまーる」という運動をしている人たちに出会った。

「ゆいまーる」とは、沖縄のコトバで「助け合い」ということ。

「老いと死を豊かに暮らす」

「死は人生の完成」

唱えるだけでなく、じっさいに「サービス付高齢者住宅」の

供給や運営を通して、一人ひとりのがそういう生き方ができる

社会を実現するために活動している。活動だけでなく、そういう

暮らしも実践している。


老いや死のテーマは、一人ひとりの幸福という観点が始まり

だと思う。絶えず、その原点にもどること。

高齢者問題ってなると、一人ひとりの幸福というより、

テーマがどんどん他所にそれていく。

風が吹けば桶やが儲かるといえば、外れていないこともないの

だろうけど、まどろっこしい。


先ず、一人ひとりがどうなっていきたいか、そこの見極めが

要るな。

そういことが、腹蔵なく語りあえること。

オープンに出来ること。知りあえること。

そこから、具体的に見えてくるものをみんなで検討する。

やれることからやっていく。

 

行政にやってもらう、というのはあんまり考えたことがないな。

現にやってもらっていることがいっぱいある。

そりゃあ、ありがたいことばかり。

その恩恵にあやかりながら、それはそれとして、自分たちで

やれること。

「地域のお医者さんで、訪問医療に意欲的な人の話ききたいなあ」

「訪問看護、訪問介護、いまはその方向の時代みたい」

「そこ、よーく見ないと、病院がパンクするので、在宅を進めている

と言う面が大きいかも」

「さうだね、人の生き方、死に方、老い方として、何が理想か、

そういう観点は出てきにくいかもね」

 

「理想の暮らしを語る会」が、いつ「理想の暮らしを実現する会」に

なっていくのか。

日々の暮らしに現れているもので、だんだん見えてくるかな?

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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