だてに育ったわけじゃない物語(その2)-海より深き-
お釈迦さまは静かに言いました。
静かではあっても、小さな声という意味ではありません。
お釈迦さまの声は、後ろのほうで聞いている者たちにも、不思議とよく聞こえる声でした。
あなたには父がいる。父がいたからここにいますよね。子供たちは、その父に慈恩(たくさんの楽しみを与えてもらったという恩)があります。
そして、あなたには母がいる。だれでもお母さんから生まれてきます。子供たちは、その母に対して悲恩(数々の苦しみを取り除いてくれた恩)がありまよね。
あなたが生まれるには、まず、数えきれないほどの縁が寄り集まって因(土台)ができあがりました。
人は30代さかのぼるだけで親たちの数は10億人を超えます。そのうちのたった一人でも子供を作らないで亡くなっていたら、あなたはここにいません。
(一代は約30年ですから、約千年前の平安時代までさかのぼるだけで現在までで10億人以上の親たちがいます。電卓で2×2×2……と30回押せば正確な答えが出ますから、やってみてください)
現在という、この時代にも数えきれないほどの男女がいます。同じ時代に生まれた縁ある人々です。
その中で、あなたの父と母が出会った。――そう、お父さんとお母さんが出会ったというのが、あなたがここにいるというもっとも身近な縁です。それが整って、あなたは今ここにいるのです。生きているのです。
父がいなければ生まれることもなく、母がいなければ育つこともありません。
父の生きる力DNAをもらって、母の胎内で命を宿したのです。
だからこそ、悲母(子供の苦しみを取り除こうとする母)が子供のことを思う心は、およそ比べるものがない程、深く温かいものなのです。
※ ※ ※ ※
実際の経典『父母恩重経』では、以上のクダリは、いわばプロローグ的に抽象的な表現でまとめられていますが、ここからは具体的な話へと展開していきます。
ご期待ください。
○ ○ ○ ○
珍しく平日の49日の法事。施主である故人のお姉さんは、今日の日程を決める時から「住職にたくさん飲んでもらいたいからさ、そのあと用事が無い日でいいから」と、私に飲ませる気満々。
ということで、お寺の隣の炉端割烹で、ヘベのレケながら、ざっくばらんな話に花が咲きました。
私と言えば、ただの酔っぱらいの隣のオヤジみたいなものですが、酔っても「坊さんとして、言うべきことはちゃんと言うぞ」と思っているので大丈夫。
そうやって密蔵院で25年間やってきて、ようやく、小さいながらも密蔵院は「山椒は小粒でピリリと辛い」存在のお寺になりました。東京だって、こうやって地方の地域密着型のお寺の形を整えられ、さらに外に対しての活動が可能だという思いであります。
聖なる坊主とはほど遠いながらも、長屋のご隠居程度にはなりたいと思っています。
しまった、今日の思いばかりが優先して、昨日のご詠歌の意味をお伝えするのを忘れました。
明日にはしっかりお伝えします。できると思います。したいと思います。前向きに検討します。--わはははは。
静かではあっても、小さな声という意味ではありません。
お釈迦さまの声は、後ろのほうで聞いている者たちにも、不思議とよく聞こえる声でした。
あなたには父がいる。父がいたからここにいますよね。子供たちは、その父に慈恩(たくさんの楽しみを与えてもらったという恩)があります。
そして、あなたには母がいる。だれでもお母さんから生まれてきます。子供たちは、その母に対して悲恩(数々の苦しみを取り除いてくれた恩)がありまよね。
あなたが生まれるには、まず、数えきれないほどの縁が寄り集まって因(土台)ができあがりました。
人は30代さかのぼるだけで親たちの数は10億人を超えます。そのうちのたった一人でも子供を作らないで亡くなっていたら、あなたはここにいません。
(一代は約30年ですから、約千年前の平安時代までさかのぼるだけで現在までで10億人以上の親たちがいます。電卓で2×2×2……と30回押せば正確な答えが出ますから、やってみてください)
現在という、この時代にも数えきれないほどの男女がいます。同じ時代に生まれた縁ある人々です。
その中で、あなたの父と母が出会った。――そう、お父さんとお母さんが出会ったというのが、あなたがここにいるというもっとも身近な縁です。それが整って、あなたは今ここにいるのです。生きているのです。
父がいなければ生まれることもなく、母がいなければ育つこともありません。
父の生きる力DNAをもらって、母の胎内で命を宿したのです。
だからこそ、悲母(子供の苦しみを取り除こうとする母)が子供のことを思う心は、およそ比べるものがない程、深く温かいものなのです。
※ ※ ※ ※
実際の経典『父母恩重経』では、以上のクダリは、いわばプロローグ的に抽象的な表現でまとめられていますが、ここからは具体的な話へと展開していきます。
ご期待ください。
○ ○ ○ ○
珍しく平日の49日の法事。施主である故人のお姉さんは、今日の日程を決める時から「住職にたくさん飲んでもらいたいからさ、そのあと用事が無い日でいいから」と、私に飲ませる気満々。
ということで、お寺の隣の炉端割烹で、ヘベのレケながら、ざっくばらんな話に花が咲きました。
私と言えば、ただの酔っぱらいの隣のオヤジみたいなものですが、酔っても「坊さんとして、言うべきことはちゃんと言うぞ」と思っているので大丈夫。
そうやって密蔵院で25年間やってきて、ようやく、小さいながらも密蔵院は「山椒は小粒でピリリと辛い」存在のお寺になりました。東京だって、こうやって地方の地域密着型のお寺の形を整えられ、さらに外に対しての活動が可能だという思いであります。
聖なる坊主とはほど遠いながらも、長屋のご隠居程度にはなりたいと思っています。
しまった、今日の思いばかりが優先して、昨日のご詠歌の意味をお伝えするのを忘れました。
明日にはしっかりお伝えします。できると思います。したいと思います。前向きに検討します。--わはははは。