風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

リオ五輪第四幕・柔の道

2016-08-16 22:58:29 | スポーツ・芸能好き
 遅ればせながら、私なりの第四幕は、柔道ニッポンの健闘である。とりわけ男子は、金2つを含み全階級でメダルを獲得し、金メダル・ゼロに終わった前回ロンドン五輪(柔道が五輪の正式種目になった東京五輪(1964年)以来、初めてのゼロ)の雪辱を見事に果たしたのだった。などと偉そうなことを言うが、期間中、ライブで経過を追ったわけではなく、ニュースで結果を確認しただけだった。というのも、ポイントを稼ぐ国際競技としてのJUDOは、見ていてもついストレスになってしまって辛いのだ。その典型は、100キロ超級決勝での、原沢久喜と、この階級の「絶対王者」と呼ばれるリネールとの対戦だろう。まともに組み合うのを嫌ったリネールが逃げ回るのをとらえることが出来ず、効果的な技を仕掛けられなかった原沢は、あろうことか2つの指導をとられて、銀メダルに終わったのだった。リネールの勝利への執念に負けたと言うべきかも知れない。
 しかし、こうして冷徹に勝負に徹するのは、なにも外国人ばかりではない。日本人金メダリストの二人は、見ようによっては好対照をなしていたと言えなくもない。男子73キロ級の大野将平は、一本勝ちにこだわり、実際に圧倒的な強さを見せ、優勝後の取材で「柔道の素晴らしさ、強さ、美しさを見ている皆さんに伝えられたと思う」と誇らしげに語った。他方、90キロ級のベイカー茉秋も強かったのは事実だが、決勝ではポイントを奪って逃げ切った。大野将平は、大和言葉で書くところの「柔の道」の伝統的な精神性にこだわり、ベイカー茉秋は格闘技としてのJUDOのゲーム性にこだわったとも言える。賛否両論あろうと思うが、柔道ニッポンに対して当たり前にメダルを期待する私たちとしては、余程、力の差がない限り、勝ちに行くJUDOを否定すべきではないのだろう。国際競技となったJUDOの宿命と言うべきだ。
 それにしても・・・と、つい思ってしまう。小学生の頃、短い間だったが道場に通い、先ずはお互いにしっかりと組むところから始めるお行儀の良い柔道を習った身としては、奥襟ばかりか背中深くを捉えようとさえするのは、いくら格闘技として有利な組み手を争うものとは言え、見ていて見苦しく、あんまりだと思うのだが・・・かつての古賀稔彦さんの一本背負いに象徴されるお家芸の幻影から逃れられない、これもただの懐古主義なのだろうか。
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