友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

我が家で遅いクリスマス

2010年12月26日 18時22分44秒 | Weblog
 今晩は我が家での遅いクリスマス。孫ふたりのプレゼントはすでに用意してあるのだが、長女もそのダンナも忙しくて時間がとれず、今晩になってしまった。なあーに、西洋ではクリスマスイヴから1月7日までは全部クリスマス週間と聞いたことがある。そういえば年末にアメリカの大学に行っていた友人を訪ねた時も、都会のショーウィンドウにはクリスマスのイルミネーションがお正月でも飾られていた。元旦を特別なものとして祝うのは日本だけなのだろうか。

 年賀状もおそらく日本の独特の風習だろう。西洋ならクリスマスカードの方が主だろう。毎年、年賀状を出すべきか悩みながら少しずつ数を減らしてきた。しかし、よく考えたならどうしてそんなことで悩む必要があるのだろうという結論に至った。確かに書くことは面倒なことではあるが、生きているよという証のようなものだ。数を減らしたところで書かなくてはならないことに変わりはない。宛名はパソコンで印刷するけれど、裏面は1枚1枚万年筆で書いているので、180枚もあるとかなり疲れる。続けられるうちは続けようと思っている。

 年に1回、年賀状だけのやり取りの人が圧倒的に多い。一昨年までは家族のイラストを描いていたけれど、夫婦ふたりだけが続いてくると、変化を描き表すのが難しくなって、昨年から干支のイラストにしてしまった。「家族の様子が楽しみでしたのに」と惜しんでくださる人もいるけれど、なかなかうまく表現できなくて、手軽な干支のイラストに変えてしまった。これまでの年賀状は書き損じも加えて、一応残してあるので、機会があれば年賀状展をやってもいいかなと思っている。さて、今年も年賀状書きは後少しになった。

 「喪中につき新年のご挨拶を失礼させていただきます」というハガキも毎年増える。中には続いて、「皆様からの年賀状は楽しみにしております」という文面のものもある。自分のところには不幸があったので出せないけれど、毎年送られてくる年賀状は楽しみにしているので送って欲しいというものである。なるほどなと思うけれど、もし年賀の挨拶を印刷してしまってあったなら、最後に一言お悔やみの言葉を書き加えなくてはならないだろう。印刷された味気ない賀状も差出人の手書きがあれば気持ちは伝わるだろう。

 テレビで「日本人の細やかな人情が失われてきた」と取り上げていた。そして、それは日本だけの現象ではなく先進国の全てに現れていると解説していた。人間は便利さを求め、時間を縮めて効率よくし、より豊かな生活を築いてきた。けれどもこれほど豊かになっても満たされていない。アメリカで暮らした人が、「裕福な白人が暮らす地域はしっかりとガードされている。その周りには貧しい有色人種がいるが、お互いに関心がない」と不思議に思ったことを話してくれた。「貧しければシンデレラを目指せ!」と言うのが一般的なアメリカ人だと教えてくれた。

 豊かさはなぜ貧困を無くせないのだろう。キリスト教もイスラム教も仏教も、「施しなさい」と説いている。豊かになるということは、一人の貧困者もつくらないことではないのか。細やかな人情は相互扶助の気持ちの現われのはずだ。必ず優しさが世界を支配すると私は信じている。

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