今日も暑い。お盆が過ぎたのに、こんなに暑い日が続くのは珍しいのではないだろうか。子どもの頃、盆過ぎに海に入ると死神に連れて行かれると言われた。海水温が下がり、真夏のように海水浴はできないという戒めだったと思う。しかし、こんなに暑い日が続くと、まだまだ海水浴もできるのではないかと思えてしまう。昼間が暑いのは仕方がないが、夜は涼しくなって欲しい。
高校野球を見ていたら、校歌の中に「東雲(しののめ)の」という歌詞があった。東の雲と書いて、どうして「しののめ」と読むのかと不思議に思った。広辞苑を引くと、“「め」は原始的住居の明り取りの役目を果たしていた網代様の粗い編み目のことで、篠竹を材料として作られた「め」が「篠の目」とよばれた。これが明り取りそのものの意になり、転じて夜明けの薄明かりを、さらに夜明けそのものを意味するようになった”とある。そういえばおぼろげだけれど、短歌の中にも「しののめの」で始まる歌があったような気がして調べてみると、こんな歌だった。
「東雲の ほがらほがらと 明けゆけば おのがきぬぎぬ なるぞ悲しき」。古今和歌集にあり、読み人しらずとある。「ほがらほがら」は、明るくなって物がはっきりと見えてくる様子、「きぬぎぬ」は衣のことだから、歌の意味は明らかだろう。一晩を共に過ごした男女が明るくなってきて、身支度をして別れを惜しんでいる、ちょっと悲しい恋の歌だ。悲しいと書いたけれど、それは私の勝手な推察で、歌の中に「悲しい」とあるのはもっと違う意味なのかも知れない。
「東風」と書いて、「こち」と読むことは知られている。平安中期に大宰府に流された菅原道真が歌った「東風吹かば 匂いおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」で、覚えている人も多いと思う。大宰府天満宮に行くと梅の木がある。「飛び梅」と呼ばれているもので、主人の菅原道真を慕って都から大宰府へ飛んできたと言われている。梅の木を愛した菅原道真の神のような力を象徴しているけれど、道真の歌の真意は愛した女性への思いを梅に喩えたのかも知れない。
和歌は日本人の心をよく表している。それは受け取り方でどのようにも解釈できるあいまいさを持っている。私たち日本人はハッキリ言うことを極力避けてきた。それは優しさであり、理知だと言ってもいい。ホンワカと包んでしまい、何が言いたいのか、どういう意味なのか、よく分からない伝え方だ。相手に判断を任せるところも優しいようで卑怯な面もある。非常に繊細で心配りができているけれど責任の所在はハッキリしない。
31文字という短い言葉の中に伝えたい気持ちを織り込むから、短歌はもっとあいまいになる。けれどもあいまいだから伝え易いとも言える。
「抱きしめて 白き乳房を まさぐりし 子どものように ほうばる幸せ」
「好きだよと 言えばどこがと 聞き返す おちゃまな君は 僕の恋人」
こういう現代の短歌は分かりやすいが、あいまいさが無いだけ情緒に欠ける気がするが、どうだろう。
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