友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

阪神淡路大震災と名古屋市の住民投票と

2011年01月18日 22時42分07秒 | Weblog
 17日は「阪神・淡路大震災」が起きた。もう17年目になる。あの時、この街の若いお母さんたちが役所へ「私たちも何かしたい。出来ることは?」と聞きに行った。役所の担当者は「あなたたちはボランティアをやったことがあるのか?」と聞いた。ただの主婦だと答えると、「経験のない者には無理だ」と呆気なく断られた。せっかくの善意をどうして潰してしまったのか。出来ることはいくらでもあったはずだから、一緒になって考えてくれたなら、このお母さんたちは行政を頼りに思いそして誇りに思ったであろう。

 役所の対応はおおむねこの類である。住民と一緒に汗を流すような職員は滅多にいない。何事もなく業務が終了することが大事と考えている。全員がそうだとは思わない。職員の中には気骨のある人もいる。住民のためになると思えば、上司に提案することもある。すると上司は「うまくいけばいいが、いかなかったときは誰が責任を取るのだ。お前に責任が取れるのか?」と言う。当然、許可した上司が責任者であろう。「よし、オレが全面的にバックアップするからやってみろ」と一緒に考えてくれたなら、若い職員はもっとやる気になったであろう。

 いったい行政とは何なのか、誰のために業務を行っているのか、そもそも行政の業務とはいったい何なのか。そんな疑問が爆発力になって、首長選挙に立候補した。「議員もやっていない者に首長が出来るか!」とヤジられた。やはり、面々と続いてきた地元の力は強かった。敗れたことがきっかけとなり、議員に立候補し、次の機会を待ったが、再び敗北した。首長選挙は議員の選挙とは大きく違う。そのための準備ができていなかった。議員になって、行政の仕組みが分かるようになると、直接指揮を執る首長を目指す人と、議員として首長に物申す人と、議員の座の心地よさに甘んじる人とに分かれる。

 昨日は、名古屋市議会の解散に賛成か反対かの住民投票が告示された。住民投票で賛成票が過半数となれば、次に市議会議員の選挙が行なわれることになる。確かに何度も選挙が行われることで、面倒くさいという気持ちにはなるだろう。選挙にかかる費用がもったいないと言う人までもいる。面倒くさいとか金がかかるということで、権利を放棄するようなことはあってはならない。民主主義は面倒くさいものであり、そのためには多少は金がかかることもある。

 私の友人、それも名古屋市外に住む友人までも「河村さんはいいねえ。応援しています」と年賀状に書いていた。おそらく私が河村さんを応援していると思ってのことだ。名古屋市議会を評価できないが、だからと言って河村さんのやり方も賛成できない。残念ながら私が応援したくなる候補者はいない。河村さんは選挙で選ばれた首長だけれど、やり方としては専制君主的だ。河村さんが言うように10%減税を行なわなければ、行政改革は進まないだろう。地域委員会制度も進めるべきだと思う。これまでの行政のあり方を変えていくことは絶対条件だとは思うけれど、その方法はもっと検討されなければならないだろう。けれど、その推進役に河村さんがふさわしいとはどうしても思えない。
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