友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

世界と日本のこれからを考える

2011年01月06日 22時17分24秒 | Weblog
 新年早々だというのに、私は風邪気味だった。そんな状態だからというわけではないと思うけれど、世の中も元気がないような気がする。高1の孫娘と話していたら、無気力な友だちのことで悩んでいた。人間はいつもいつも元気ではいられない。落ち込んでいる時期も人生には何度かある。けれどもどうもその友だちは世の中を甘く見ている。16歳では仕方ないかも知れないが、学校にも行かずせっせと働きもせずに、グウタラしている。それでいて、高校へ通っている友だちを呼び出して、生徒手帳や定期券を借りようとする。そのうち、「金貸して!」と言い出すに決まっている。「直らんの?」と孫娘が私に聞く。「直らんね。きっと地獄を見て、違う自分になろうとするまでは」と私は答える。楽しんで生きられる人生などはない。けれども分からないだろうな。救ってあげたいけれど、彼女が自分で変えようとしない限り無理だろう。

 社会的な仕組みがもう少し整っていれば、社会から落ちこぼれた人々を救うこともできるかも知れない。地域社会で優しい気配りができるそういう仕組みができていけば、まだ手立てはあるのかも知れない。好きでもない男に金で身体を売る。好きでもない女を金で買う。恋愛とは全く次元の違う売買が存在する。自由に愛し合うことの喜びも悲しみもない、金のやり取りだけで得たものだ。生活するためには仕方なかったと言うかもしれないが、本当にそうであるなら、やはりそれは社会の責任であろう。学校に通えない子どもたちを作り出してしまった社会の責任は大きい。何が幸せ何か、わからないのだから、自分の幸せは自分で掴み取るべきだという自己責任論を否定しないが、少なくとも同じ位置に立ち、落ちこぼれないような仕組みをつくることは社会の責任と考えていいのではないだろうか。

 年末年始の各新聞の社説に共通していたのは、これからの日本社会に対する模索だった。日本が欧米と肩を並べるようになったのは明治からだ。ロシアと戦い、清と戦い、どこでどう間違ったのか欧米と戦い、改めて出発してわずか66年しか経ていない。そう言っても、地球がこれほど狭くなったのもこの5・60年だから、この地球は始めて地球として新しい時代に入ったのだと私は思っている。日本はこの66年の間に大きく変わったけれど、夏目漱石の目からすれば、ダメだと映っているのかも知れない。なぜなら、日本は常に欧米を真似してきたからという。江戸時代の日本は自然を大切にしながら、森林を管理・再生することを怠らなかった。そういう日本の原点に立ち返って難局を切り抜けていこうという主張が多かった。

 でも待てよと私は思う。学問も芸術も産業も文化も、あらゆるものは真似から始まる。真似をしながらさらにそこに新しいものを作り出していく、それが人間の歴史だろう。日本人は日本人の、中国人は中国人の、真似の仕方があるのは当然のことだ。ところが地球が狭くなった分、独自性が無くなり、よりいっそう地球的な融合が生まれてくるのは仕方がないことだろう。社会は確実にひとつに向かっているけれど、そこに住む私たち人間はなかなかそれに追いついていくことができない。それでも何時か、そういう時代になっていくと私は思う。
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