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友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

投票基準はどこなのだろう

2010年04月19日 23時52分37秒 | Weblog
 選挙の結果は全く4年前と同じだった。現職は4年前には2万票の得票だったが、投票率が下がったために1千票減らした。今回の挑戦者の得票は前回の3人の合計とほぼ同数だから、現職の票はかなりしっかりと固まっている。ただ、4年前には無かった政権交代が実現し、たとえ民主党政権はもたもたしているとしても、その期待感はマグマのように残っているような気がする。こんな小さな自治体でも新しい風を期待する気持ちは広がっている。それが票にはっきり表れてくるのはもう4年後なのだろうか。

 市長選挙と市議選挙を一緒に行うのは、現職市長や多数派の市議には有利に働く。市長派と思われる市議候補者の得票数の合計から10%減らした数が現職市長の得票であることからも、市長選挙と市議選挙をセットで行うことの有利さが見えてくる。市長選だけで単独に行なうならば、かなり違う結果になったかもしれない。市議選では、ほとんど応援者が付かないで本人がひとりで奮闘していた人が何人かいたけれど、真面目に市政の問題点を取り上げて訴えた人は当選している。

 大勢の応援者を引き連れ、街宣車から怒鳴り散らさなくても、市議選ならば勝てることを証明している。自分の考えなどを書いたチラシも配らず、自転車で走り回るだけで、演説もしなかった人は当然ながら落選した。その彼は「ボランティアで選挙は出来ないでしょう」と言っていたけれど、ひとりでも確かに選挙運動は出来るけれど、何がしたいのか、どういう市議を目指しているのか、そういうことを訴えなければ有権者は判断のしようがない。「演説は苦手ですから」と言うのであれば、少し練習されておくべきだったと思う。

 選挙をやっていつも思うことは、どうして政策や人柄で判断されないのだろうかということだ。皆さんの投票基準はどこにあるのだろう。選挙の応援者を見ていても、主義主張よりも同学年とか同じ地域とかいったことで応援に回るケースが多い。候補者の思想や政策よりもそうした連帯感や一体感が選挙を支えている。選挙という「勝つか負けるかという勝負」は、運動会に共通するようなところがある。みんなで歯を食いしばって頑張る、そこから生まれる連帯感や一体感が参加した者には忘れられない気持ち良さとなるのだろう。

 まだまだ、この地域をどうするのか、あるいはこの国をどうしていくのか、そんなテーマについて首長や議員を選ぶ投票には至っていない。けれども、いつまでも地域エゴや団体のエゴが優先されるような選挙であっていいはずはない。有権者が候補者を厳格に見比べ選ぶ時代が必ずやって来るだろう。いやすでに、多くの国民はそうした目で候補者を選別しているはずだ。候補者を支え持ち上げてきた応援者は単に候補者のためのロボットではなく、ひとつの目標を同じくする同士であって欲しいと思う。
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