友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

桜は風に舞い、チューリップは耐えて頭を下げる

2010年04月07日 23時03分00秒 | Weblog
 車で走っていると、桜の花びらが吹き付けてきた。思わず車を止めて、桜吹雪を堪能した。神社に植えられている何本かの桜から強い風に乗って花びらが宙を舞っていた。桜吹雪というが、正しく桜の花びらが雪のように舞っていて、見事だった。桜吹雪の情景で思い出すのは映画「失楽園」だ。主人公は黒木瞳さんだったと思うけれど、ストリーもどんな映画だったかも思い出せないのに、桜吹雪だけが強烈な印象で残っている。

 日本人がこの桜の散り際に美を感じたのは納得できる。もちろん満開の桜もきれいでしかも豪華であるけれど、それが風のために雪のように舞い散っていく場面も実に美しい。それを「潔さ」と思ったのだろうけれど、仏教のあるいは東洋哲学に流れる「無常観」とも重なり合わせて、美へと高めてしまうところが凄いと思う。方丈記ではないけれど、常に同じものはないと見極めてしまう自然観察が私たちの身体には流れているようだ。

 さらに常にないという「無常観」は、情緒的な「無情」にもつながっていき、人を恋しく思っているのに、人の心もまた「無常」であるから、それは誠につらい「無情」と映るのかもしれない。満開の桜もきれいであるし、その桜が散っていく様もきれいであるという一見矛盾しながら、なんとなく分かってしまう情緒性が私たち日本人なのかもしれない。そんな日本人の曖昧さを子どもの頃の私は許せなかったので、キリスト教に惹かれたのだけれど、キリストの教えを最高のものと思いながらも、情緒的でもいいかもしれないなどと勝手なことを考えている。

 だからといって、与謝野さんや平沼さんの新党結成に、「それもいいじゃないか」などと情緒的なことを言うつもりはない。平均年齢69歳の新党なんか、とてもではないが新党などと言えない。むしろ恥ずかしい気がする。確かに今、民主党はずっこけている。ここは小沢一郎さんや鳩山由紀夫さんに政界から引退してもらい、新民主党に脱皮していかないと第2の自民党そのものになってしまう。

 こうした政界再編の動きを見ていると、読売新聞の渡辺氏が工作して破綻した、大連合作りが気になる。新保守派と言われる人々は国会で安定多数を占めたならば、「憲法改正」を目指そうとしているのか。アメリカに押し付けられた「日本国憲法」を、何が何でも国家が主体となる国へ作り変えていきたいとする親米派かあるいは国家主義的なグループではないだろうか。国家なんていらないと考える国家無用論者の私は、嫌な気配を感じている。

 桜が風に舞い、チューリップは耐えて頭を下げている。桜を潔いと思うのも、チューリップをねばり強いと思うのも、それは自由であるけれど、いずれは「朽ちる」という点では同じことだ。「人生は儚いね」と高校生になったばかりの孫娘が呟くけれど、だからこそ充実した日々を送って欲しいと思う。老いた政治家は「潔く」散っていく方がいいのではないだろうか。
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