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友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

これはただの前痴呆症か?

2009年06月22日 21時13分13秒 | Weblog
 友だちからケイタイにメールが届いた。「メールボックスが満タンでメールが入りません。きっと皆さん迷惑していると思います」。そこで私は「それが皆さんからはメールが届くのですがどうしてなのでしょうか?一度受信メールを整理してみます。ご迷惑をおかけしています」と返信したところ、再び友だちから「多くの方は簡単な文書だけの封書と考えて下さい。一杯の郵便受けに押し込むことが可能です。僕が送ったのは、封書の1万倍ほどのある通販のカタログなのです。郵便受けが空っぽでも入れるのが大変なのです」とメールが届いた。なるほど、そういうわけか。私は「了解しました」と返信を送る。

 まだ、受信メールボックスの整理にかかっていないが、早くしないといけないなと焦る。わかっていてもなかなかできないというか、まだいいだろうという甘えというか、ことパソコンに関する状況判断は甘くて遅い。切迫感がないのだ。何が原因で、何が起きているのか、自分で確かめ考えてみなければならないのに、何も根拠なく「何とかなるだろう」と思い込んでいる。正しくはそう思い込もうとしている。

 その時、昼間の雑談で話題になっていた麻生首相のことを思い出した。私自身は見ていないので何も言えないが、テレビでの党首討論を見ていた人は、「どうして麻生さんはあんなに切迫感がないのだろう」と言う。「大きな声を上げれば相手をやっつけたとでも思っているのだろうか」。「それに全く相手の言うことを聞かず、たとえば民主党は財源をどうするのか全く考えていないとか、民主党は西松建設からの献金問題について何も明らかにしていない、そう口撃していたけれど、自民党だって財源はどうするのか、西松問題にどう考えるのか、何も説明していない。無知というか、全然何もわかっていない」。麻生首相は論争するというよりも相手の弱点を突けば成果があると思っているのだろう。

 日本人は古来より、いろんな国の考えや制度や習慣を(無批判的過ぎるという批判はあるが)取り入れ、咀嚼し、自分のものに作り上げてきた。仏教や茶華道や近代哲学など、実に最高地点へと昇華している。現場での論争はきわめて不得手であるけれど、いったん引いてじっくり考え、長い年月をかけて練り上げ、それらしいものを作り上げる能力は持っている。それ自体は見上げた才能だと思うけれど、実際にやっていることは実によくわからないことが多いのだ。誰もがひとつひとつをキチンと見つめ、考え、答えを出していかなければならないのに、そのうち誰かがやってくれるだろうと決め込んでいる。

 なにもかも、全てを水に流し、「行く川の流れは絶えずしてもとの水にあらず」と過去の検証を怠る。かくいう私もその点では典型的な日本人になっている。昨日のことばかりか今日のことも忘れている。アレッ?これはただの前期痴呆症か?
コメント
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