雨降りになった。雨は嫌いかと言えば、案外好きな方かもしれない。シトシトと降る雨もいいし、ザアザアと降る雨もいい。最近のように一箇所への集中型の雨は都市型洪水を招くことになるので、雨降りもまた楽しいなどとは言えないが、雨降りは涼しいし、ぼんやりできる。雨が似合う花と言えばなんといってもアジサイだろう。雨の中のショウブも見ごたえはあるけれど、花が大きいだけに花弁についた水滴が重そうでかわいそうだ。アジサイの方は花が(実は花ではないそうだが)小さいし、しっかりしているから、雨に喜んで受けているように見える。
私は青いガクアジサイが好きだけれど、庭に置かれたものよりも、森の中で群生しているアジサイは可憐だけれども、雨に打たれて活き活きしているように見える。東海地方は雨の無かった昨日から梅雨入りしたという。今日のような雨降りになると、「そうか、もう梅雨入りか」と実感を込めて雨音を聞くことが出来る。
ところで、梅の実が熟する頃に降るなが雨だから梅雨(ばいう)というのはわかるけれど、なぜ「つゆ」と読むのだろう。梅雨という言葉は中国から伝わったという。その梅雨も、旺文社の漢字典によれば「このころは物に黴が生えることから黴雨(ばいう)といい、のちに発音の通じる梅の字を用いた」とあった。「つゆ」と読むようになったのは江戸時代になってからのようだ。これはインターネットの検索で出てきた答えである。
私は短歌教室に通うようになって、これまで持っていた国語辞典では物足りなく思い、新たに旺文社の漢字典と同じく旺文社の古語辞典を購入した。旺文社の辞典にしたのは、他の辞典に比べて読みやすい印象だったからだが、今から思えばなにやら受験勉強に挑戦するような気持ちだった。もともと辞書とか百科事典を眺めるのは好きで、先ほどの「梅雨」などはどう見ても「つゆ」と読めないのに、なぜそう読むようになったのか、知りたくなったのだ。
今、ある人が夏目漱石の『こころ』を読んで感動したというので、日本の思想形成にかかわったのであろう明治大正の作家の小説は読まないと決め付け避けてきたけれど、思い直して読んでいる。漱石の作品は子ども向けの日本名作集で小学生の時に、「我輩は猫である」と「坊ちゃん」を読んだけれど、大人向けの作品は毛嫌いしてきた。しかし、読んでみると意外に難しい言葉も無くスラスラと読める。新聞に連載された小説だから、当時の朝日新聞を読む人のレベルがかなり高いとしてもやはり不特定多数の読者を前提に書かれた小説だからであろう。
現在の若い女流作家の作品の方がはるかに難しい漢字を使用している。たとえば、殊勝(けなげ)とか嘯(うそぶ)くなどは麻生首相だって困るのではないだろうか。多寡(たか)も読めない字ではないけれどそれなら同じ意味の多少でいいじゃないかと思ってしまう。私が読めなかった漢字をあげると、瞠る、踵、竦む、跛行など数え上げればきりがないほどある。それらをひとつひとつ辞書で調べていくと案外楽しい。
私は青いガクアジサイが好きだけれど、庭に置かれたものよりも、森の中で群生しているアジサイは可憐だけれども、雨に打たれて活き活きしているように見える。東海地方は雨の無かった昨日から梅雨入りしたという。今日のような雨降りになると、「そうか、もう梅雨入りか」と実感を込めて雨音を聞くことが出来る。
ところで、梅の実が熟する頃に降るなが雨だから梅雨(ばいう)というのはわかるけれど、なぜ「つゆ」と読むのだろう。梅雨という言葉は中国から伝わったという。その梅雨も、旺文社の漢字典によれば「このころは物に黴が生えることから黴雨(ばいう)といい、のちに発音の通じる梅の字を用いた」とあった。「つゆ」と読むようになったのは江戸時代になってからのようだ。これはインターネットの検索で出てきた答えである。
私は短歌教室に通うようになって、これまで持っていた国語辞典では物足りなく思い、新たに旺文社の漢字典と同じく旺文社の古語辞典を購入した。旺文社の辞典にしたのは、他の辞典に比べて読みやすい印象だったからだが、今から思えばなにやら受験勉強に挑戦するような気持ちだった。もともと辞書とか百科事典を眺めるのは好きで、先ほどの「梅雨」などはどう見ても「つゆ」と読めないのに、なぜそう読むようになったのか、知りたくなったのだ。
今、ある人が夏目漱石の『こころ』を読んで感動したというので、日本の思想形成にかかわったのであろう明治大正の作家の小説は読まないと決め付け避けてきたけれど、思い直して読んでいる。漱石の作品は子ども向けの日本名作集で小学生の時に、「我輩は猫である」と「坊ちゃん」を読んだけれど、大人向けの作品は毛嫌いしてきた。しかし、読んでみると意外に難しい言葉も無くスラスラと読める。新聞に連載された小説だから、当時の朝日新聞を読む人のレベルがかなり高いとしてもやはり不特定多数の読者を前提に書かれた小説だからであろう。
現在の若い女流作家の作品の方がはるかに難しい漢字を使用している。たとえば、殊勝(けなげ)とか嘯(うそぶ)くなどは麻生首相だって困るのではないだろうか。多寡(たか)も読めない字ではないけれどそれなら同じ意味の多少でいいじゃないかと思ってしまう。私が読めなかった漢字をあげると、瞠る、踵、竦む、跛行など数え上げればきりがないほどある。それらをひとつひとつ辞書で調べていくと案外楽しい。