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友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

納得できない「脳死は人の死」

2009年06月20日 19時12分19秒 | Weblog
 18日の衆議院の本会議で、「脳死は人の死」とすることを前提とした、子どもからの臓器の提供にも道を開く、臓器移植法改正案が可決された。これで審議は参議院に移されたが、参議院でも同様に可決されれば改正案は成立する。否決されたら、現在の状況ではありえないようだけれど、衆議院では3分の2の賛成が必要となるので再可決は困難だろうと予想されている。自民党、公明党、民主党はそれぞれ賛否が分かれた。社民党は反対、共産党は棄権した。

 私は若い頃、自分が死んでその身体が他人の役に立つのであればと思い、臓器の提供を申し出る気でいた。カミさんは「そんな遺体がバラバラにされるのは嫌だ」と納得しなかった。それからどんどん臓器移植が盛んになり、それに伴って臓器移植を待ち続ける人の姿がマスコミで取り上げられるようになった。「臓器の移植しか子のこの助かる道はないのです」と訴える親の姿は必死だ。また、臓器移植が間に合わなくて亡くなってしまった、とても可愛い赤ちゃんの生前の姿が画面に映し出されたりして、思わず目頭を熱くした。

 けれども一方で、貧困な国では二つある腎臓の片方を売る人が出始めた。また、これは単なるウワサかもしれないが、子どもを殺してその臓器を売る親が現れた国もあった。助かる命を助けたいと医者なら誰でも思うだろうし、自分にその技術があるならば発揮してみたいと考えて当然だろう。医学は人の命を守るために生まれ、育ってきたのだから。

 地球には60億人が暮らしているが、10億人に満足な食糧が渡っていないという。何千万円という寄付金が「臓器移植でしか助からないかわいそうな子どものために」集められる。確かに人間は善意の人だと思う。思うけれども、10億人が飢えている現実は何なのか。未だに戦争で死んでいく人がいるが、なぜ戦争を阻止できないのか。日本では毎年3万人の人が自殺しているが、これをどう考えればいいのか。

 生きている人間が生きていこうとする人間を支えていくのは当たり前のことだと思う。けれども同時に、戦争や自殺ではない「死」を受け止めることも人間の務めのように思う。人はいつかは死ぬ。生まれて間がない命が尊くて、老いた人の命はどうでもいい訳ではないはずだ。花が枯れるように、人もまた枯れるのだから、たとえ早すぎるとしてもそれを受け止めていく死生観が本当は大事なのではないかと思っている。

 美味しいものを食べ、好きなことを好きなだけやって、何という身勝手なヤツかと自分を思うけれど、それは「神」が裁くことだと思う。今日、7月に出産する長女とお腹の子どものために、ダンナの実家が安産祈願をするというので、結婚報告祭を行なった神社へ向かい、生まれてくる子どもと産む長女の安全と健康を祈って来た。
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