このところひとりで食事をすることが多い。そこで短歌を5つ作ってみた。
1)本を読みウトウトしては茶をすすり同じところを読み返す今日
2)誰も来ず誰にも会わず日暮れるを待つだけの日々多くなりける
3)今日もまた電話ひとつなく静かなりテレビもつけずひとり食する
4)静けさに堪らずテレビつけたるに画面は見ずに新聞を読む
5)ひとり飲むコーヒーはにがし君の住む空を眺めてため息を吐く
何だか暗いな。こんな作品では短歌教室に提出してもダメかな。先輩諸氏は私に「あなたはロマンチストねえ」と言い、「生活の歌も作りなさいよ」とアドバイスをしてくれた。そこで老人の孤独を詠ってみたのだが練られてないな。
読んでいた本は夏目漱石の『こころ』で、まだ読み終えたばかりなので、きちんと整理が出来ていないが、この話はどこかで聞いたというか見たことがあるように思った。先日、書店に行ったが、夏目漱石と芥川龍之介のコーナーが出来ていた。『こころ』のマンガ本もあった。これには驚いたけれど、そういえば長女が高校生の頃だったか、『源氏物語』のマンガ本がブームで、カミさんは娘たちよりも熱心に読んでいたことを思い出した。私の思い違いかもしれないが、マルクスの『資本論』のマンガ本もあったのではないだろうか。そういえば『三国志』だって、横山光輝のマンガで覚えている場面の方が多い。
漱石の『こころ』は、心をテーマにしている。友人が自分も好きな女性を「好きになった」と告白した。そこで彼は友人に彼女を取られないように策を練る。そして、友人が躊躇している間に彼女の母親に「嫁に欲しい」と言う。友人は母親から結婚の話を聞き、「薄志弱行で到底行先の望みがないので自殺する」といった趣旨の遺書を残して逝く。友人を死に追いやり好きな女性と結婚しながら、やがて彼も自殺してしまうという物語だ。
坪内逍遥が『小説神髄』で、これからの小説は「心理学の道理に基づき、その人物をば仮作るべき」と説いているが、そういう点で漱石の初期の作品、『我輩は猫である』と『坊ちゃん』は江戸文芸の流れにある「読み物」であったと思う。「漱石は自筆の広告文で、人間の心を研究する者はこの小説を読めと書いた」(三好行雄の「『こころ』について」より)という。近代文学への気負いここにある。『こころ』は心理描写に終始している。友人を死に追いやってしまった彼はまたその責任から自ら命を絶つが、そのような人は現実には存在しない。だからこそ文学は成り立ち、「恋愛は神聖だけれども罪悪」と言い切れるのだろう。ここに読者は惹かれるのだと思う。
主人公は策を用いて愛する女性を手に入れた。彼には「恋愛」は戦いであり、戦いはどんなことをしてでも勝利しなければならなかった。ところが勝利品である彼女は心を許す相手ではなく、そばにおいて愛しむ対象物にすぎない。これは推測だが、したがって女性の身体にも一切触れなかったのではないだろうか。そうすることが死んだ友人への「義」を貫いたと考えても間違いではないだろう。けれども、そでは彼女の存在はただの人形になってしまうのではないだろうか。
1)本を読みウトウトしては茶をすすり同じところを読み返す今日
2)誰も来ず誰にも会わず日暮れるを待つだけの日々多くなりける
3)今日もまた電話ひとつなく静かなりテレビもつけずひとり食する
4)静けさに堪らずテレビつけたるに画面は見ずに新聞を読む
5)ひとり飲むコーヒーはにがし君の住む空を眺めてため息を吐く
何だか暗いな。こんな作品では短歌教室に提出してもダメかな。先輩諸氏は私に「あなたはロマンチストねえ」と言い、「生活の歌も作りなさいよ」とアドバイスをしてくれた。そこで老人の孤独を詠ってみたのだが練られてないな。
読んでいた本は夏目漱石の『こころ』で、まだ読み終えたばかりなので、きちんと整理が出来ていないが、この話はどこかで聞いたというか見たことがあるように思った。先日、書店に行ったが、夏目漱石と芥川龍之介のコーナーが出来ていた。『こころ』のマンガ本もあった。これには驚いたけれど、そういえば長女が高校生の頃だったか、『源氏物語』のマンガ本がブームで、カミさんは娘たちよりも熱心に読んでいたことを思い出した。私の思い違いかもしれないが、マルクスの『資本論』のマンガ本もあったのではないだろうか。そういえば『三国志』だって、横山光輝のマンガで覚えている場面の方が多い。
漱石の『こころ』は、心をテーマにしている。友人が自分も好きな女性を「好きになった」と告白した。そこで彼は友人に彼女を取られないように策を練る。そして、友人が躊躇している間に彼女の母親に「嫁に欲しい」と言う。友人は母親から結婚の話を聞き、「薄志弱行で到底行先の望みがないので自殺する」といった趣旨の遺書を残して逝く。友人を死に追いやり好きな女性と結婚しながら、やがて彼も自殺してしまうという物語だ。
坪内逍遥が『小説神髄』で、これからの小説は「心理学の道理に基づき、その人物をば仮作るべき」と説いているが、そういう点で漱石の初期の作品、『我輩は猫である』と『坊ちゃん』は江戸文芸の流れにある「読み物」であったと思う。「漱石は自筆の広告文で、人間の心を研究する者はこの小説を読めと書いた」(三好行雄の「『こころ』について」より)という。近代文学への気負いここにある。『こころ』は心理描写に終始している。友人を死に追いやってしまった彼はまたその責任から自ら命を絶つが、そのような人は現実には存在しない。だからこそ文学は成り立ち、「恋愛は神聖だけれども罪悪」と言い切れるのだろう。ここに読者は惹かれるのだと思う。
主人公は策を用いて愛する女性を手に入れた。彼には「恋愛」は戦いであり、戦いはどんなことをしてでも勝利しなければならなかった。ところが勝利品である彼女は心を許す相手ではなく、そばにおいて愛しむ対象物にすぎない。これは推測だが、したがって女性の身体にも一切触れなかったのではないだろうか。そうすることが死んだ友人への「義」を貫いたと考えても間違いではないだろう。けれども、そでは彼女の存在はただの人形になってしまうのではないだろうか。