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友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

ねじれ国会だからいいんだ

2008年05月06日 22時26分02秒 | Weblog
 毎週木曜日は喫茶店の2階会議室を借りて、NPO法人へ向けて定例のミーティングを行なっている。日頃は怒りを口にすることのない長老が「あれは酷過ぎますよ」と言う。あれとは、後発薬品は低所得者に使わせるという厚生労働省の発言についてである。後発薬品は大手ではない各薬品会社がしのぎを削っている薬品だから、大手のように薬害の心配はないものだ。それをあたかも二流品のように扱い、低所得者なら選択の余地がないからと押し付けるのはけしからん発想だと言うのである。

 会議に入る前の雑談だが、後期高齢者にはなっていない皆さんからも、厚生省はいったいどうなっているのかという批判が相次いだ。確かに高齢者をさらに「後期」と言う名前をつけて区別したり、後期高齢者の方が「私たちは死ぬということか!」と憤っていたけれど、言葉がどんな響きを持つものか考えなかったのだろうか。今度の後発薬品の扱いでも、批判を受けてから「間違っていました。訂正します」と発言するのでは、全く反省が生きていないといわれても仕方ないように思う。

 その厚生省は、健康診断でメタボを行なうという。医療費が膨らむことを防ぐことが目的なのだろうけれど、わざわざ健康診断するというのもおせっかいすぎるように思う。国民が健康であることは国家としては重要なことであることは間違いないが、一人ひとりの健康状態までチェックするのは行き過ぎではないか。私は少子化問題も国家が関与することではないと思っている。国のために子どもを作るわけではない。子どもを生むか否かは二人の問題である。国家は、国としての理想や方向を国民に示すことはあっても強制することではないと思う。

 メタボは健康にとってこんな危険が潜んでいますと知らせることは大事だが、どうするかは個人が判断することだ。厚生省はどうしてこんなにチグハグな政策ばかりを出してくるのだろう。省を挙げてまず年金問題に取り組まなくてはならないし、医療のあり方そのものを制度から立て直さなくてはならないはずだ。医師を全て国家公務員にでもするくらいの抜本的な改革案が欲しいものだ。今の厚生省の提案は、どんどんと天下り先を作るだけではないだろうか。

 しかしまあ、厚生省の問題も、国土交通省の問題も、先の日銀総裁の問題も、「ねじれ国会」だからこそ、私たち国民が知らされなかったことが知らされるようになった。福田総理は「かわいそうなくらい一生懸命でやっているんです。それをわかって欲しい」と言っていたが、民主党はじめ野党が「ダメ」と言っている人物を3度も提案することの方が異常だと、わかっていないことの方がもっと恐ろしい。

 5月4日付けの中日新聞の『視座』で、米コロンビア大学のシェラルド・カーティス教授が「マスコミは“ねじれ”という言葉を使うのをやめて、日本政治の新現実という観点から報道すればいい。今の政治状況を悲観する必要はない。国会の新現実は既に政治をいい方向に向かわせている」と述べていたが、私も同感だ。
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