友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

不登校その2

2008年02月23日 22時15分54秒 | Weblog
 不登校にはそれぞれにその原因が存在する。原因は1つかもしれないし、いくつかのものが重なっているのかもしれない。私は自分自身が学校へ行けなかった経験があるというだけで、不登校問題の専門家でなければ教育の研究者でもないので、ここで分析するつもりは毛頭ない。「不登校児は精神的に弱い人間だからもっと鍛えて強い人間にしなくてはならない」と、よく言われてきた。「精神的に弱い」という指摘が間違っているとは思わないけれど、「鍛えて強くする」ことには疑問だし、むしろ反対だ。

 教育はハードルを飛び越えさせることだという考えがある。できるだけ、高いハードルを設けたり、ハードルの数を増やすことが教育だという。困難を与え、それを克服した時、人は大きくなれるという考え方だ。もちろんそれに応える子どももいるだろうし、そうした試練こそが自分を高めてくれると信じている子どももいると思う。親や子どもの置かれた環境が大いにその子どもの考え方や感じ方に影響しているからだ。「戸塚ヨットスクール」が世間から認められたのはそう考える人が多かったからだ。

 ところが、死者が出たら、世間はすぐに「やりすぎだ」と非難した。ここには死者が出ることが当たり前のシステムになっていることが欠落している。私は「戸塚ヨットスクール」のシステムを教育だとは思っていない。私は困難を与え、それを克服させる方法が嫌いだ。ぞっとする。教育はすべからく困難〈イヤなこと〉を子どもに与え、やらせることから始まると、私は思っていない。自分がイヤだったことを人に強要したくない。

 私は、無秩序の中から生まれてくる秩序こそが本物だと思っている。ここまで書いて、ハタと気が付いた。私の中にはアナーキなものがあって、それが秩序とか規則とかおおよそみんなが認める価値観を否定しようとするのかもしれない。カミさんが怒りを爆発させるのは、そんな私の独りよがりの言い分をまくし立てた時だ。カミさんは言う。困難を与えずに教育はできない。秩序を乱す子を叱らなかったら、蔓延してしまう。悪い子を一時的な措置として隔離しなければ、授業は進まない。それをあなたのような考えでは何一つ解決しない。そう現実を突きつけられるだろう。私は全く反論できない。反論できないが、でもやはり違うと思ってしまう。

 不登校の子を持つ親が、校長室でいじめた子どもとその親に会った話を聞いた。その子は余りにも粗末な身なりをしていた。母親がいなくて、父親もトラック運転手で不在がちの家庭であることがわかった。自分の寂しさがいじめの形になったのかと思ったら、その子が可哀相で責める気にはなれなかったと言っていた。何不自由のない裕福な家庭の子どもでもいじめっ子はいる。落ち着きがなく他動性の子どもと診断される子もいるが、私はそれを病気と診断することに抵抗がある。「病気」であるかもしれないが、そうさせる何かがあることも確かだと思う。

 現代は忙しすぎる。常に今日よりも明日はもっとゆたかな生活を望みすぎる。右肩上がりの経済がどこまでも続く夢を求めすぎる。悪いことは何でも人のせいにしたがる。本当は私たち、自分自身が一番悪いのかもしれない。子どもも大人も人は優しさを求めている。優しい心に出会えば、それだけで人は癒される。本当はそれだけでいいのではないか。
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