今年の桜は、咲いてから寒気が入ったこともあって、長く見られたような気がする。
しかし、一度咲いてしまえば、散り去っていくことは定められたことだ。そんな花を見るたびに、あと何回、この爛漫の花が見ることができるか、不安が頭をよぎる。
花さそふあらしの庭の雪ならで
ふり行くものは我身なりけり 藤原金公経
百人一首では、目の前の落下を、自分の身に置き換えて詠嘆している歌がある。公経は頼朝の縁戚の娘を夫人にしていたので、朝廷では権勢ならぶものなく、衣笠山の麓に別業を造営して贅をこらした。金閣寺の前身となる寺院である。
権勢をほしいままにしていた公経もまた、一年ごとに年を重ねる身と、春の嵐に散っていく桜に不安を感じたのであろう。
花のいろはうつりにけりないたずらに
我身よにふるながめせしまに 小野小町
公経と同じ不安を女の立場で詠んだ歌だ。世に経るという、古びるという詞に雨が降るという意味を重ね、ながめも眺めと長雨を掛けた技巧をこらしている。麗しい容姿と才能豊かな女性であった小町は、さまざまな伝説をうんでいる。阿武隈、小野川温泉、秋田と小町の伝説が云い伝えれている。
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