常住坐臥

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老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

陶淵明 再読

2021年10月07日 | 漢詩
今朝、朝露に咲く菊の花が美しかった。新しいスマホの写真がありがたい。この花は食用菊のモッテノホカ。健康のために酒に浮かべて飲むキクではなく、茹でてお浸しにする。陶淵明の詩、『飲酒』を再読してみる。

余間居して歓び寡なく、兼ねて此頃夜已に長し。偶たま名酒あり。夕べとして飲まざる無し。影をか顧みて独り尽くし、忽焉として復た酔う。既に酔うの後、すなわち数句を題して自ら娯しむ。紙墨遂に多く、辞に詮次無し。いささか故人に命じて之を書せしめ、以って歓笑と為すのみ。(「飲酒・序」)

秋の夜長、淵明の楽しみは、酒に酔い、その上で詩を書くことであった。詩には順序や脈絡さえない。書家に詩を清書してもらい、お笑い草にした。そんな「飲酒」の連作20首。詩作の時期は陶淵明が宮仕えを止めて田園の居に帰った40歳ころ(AD404年)か、その12年後52歳とする2説がある。そのうちの一番有名な1首を読んでみる。

廬を結んで人境に有り、
而も車馬の喧しき無し
君に問う何ぞ能く爾かと、
心遠く地自から偏なり。
菊を採る東籬の下、
悠然として南山を見る。
山気 日夕に佳し、
飛鳥相與に還る。
此の中に真意有り、
弁ぜんと欲してすでに言を忘る。

以下、吉川幸次郎の解釈を掲げる。「その草庵は、過度に辺鄙なところにあったのではない。むしろにぎやかなところにあった。しかも訪問の車馬のわずらわしさはない。このにぎやかなところにいながら、どうしてこうひっそりと暮らせるのかと、そうある人が自分に問う。自分は答える、それはこころの持ち方次第。主人の心が悠遠であれば、土地も自然にへんぴになるまでさ。草庵の東のかきねあるのは、菊。するとふと目に入るのは、廬山の山容。その美しい山容は、夕方の空気の中に、いっそう美しくかすみ、鳥たちが楽しげに帰ってゆく。此の平和な美しい風景のなかにこそ、真意、宇宙の真実は把握される。もはやそれを言葉にすることはできない。」

東の籬で菊を採ったのは、その花びらを忘憂のもの、つまり盃の酒に浮かべて飲むためだ。52歳にして淵明は人生のかかる境地に達していた。悠然として立つ廬山は、淵明がいるべき場所であり、そこを目がけて帰っていく鳥は、淵明の姿の象徴でもあろう。

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