とある雑居(ざっきょ)ビルの一室(いっしつ)が彼の仕事場(しごとば)だった。彼はそこで辞書(じしょ)の文字(もじ)を書き写(うつ)していた。一文字(ひともじ)ずつ丁寧(ていねい)に、用意(ようい)されている紙(かみ)に書いていく。ちょっと変な仕事だが、彼はなぜかこの仕事を気に入っていた。今までいくつも仕事を変えてきたが、この仕事にはノルマもなく、ずっと一人でいられるので、これまで辞(や)めたいと思うことはなかった。
彼に与えられた仕事は他にもあった。それは、訪(たず)ねて来る人に数字(すうじ)を伝えること。部屋の壁(かべ)に小さな黒板(こくばん)がかけてあり、そこに数字が書かれている。それを伝えるのだ。
彼がこの仕事を続けて一ヶ月くらいたったとき、彼はあることに気がついた。それは、〈1〉とういう数字を伝えると、訪ねて来た人の誰(だれ)もが残念(ざんねん)そうな顔をするのだ。彼にはそれが不思議(ふしぎ)でならなかった。〈1〉とうい数字にどんな意味(いみ)があるんだろう?
ある日のこと、若い女性が訪ねてきた。黒板には〈1〉が書かれていたので、彼はそれを彼女に伝えた。すると、彼女はなぜか嬉(うれ)しそうな顔をした。彼は思わず彼女に訊(き)いた。
「どうして、そんなに嬉しそうにするんですか? 他の人は、そんな顔をしないのに」
彼女は人懐(ひとなつ)っこい笑顔(えがお)で答えた。「あら、そうなんですか? そうね、〈1〉はちょっと遠くにあるから…。でも、あたしは旅(たび)をするのが大好きなんです」
「遠くって…。あなたは、そこへ行って何をするんですか?」
「それは行ってみないと分からないわ。何が待ってるのかしら? わくわくしちゃう」
<つぶやき>これは、何かのゲームなのかな? それとも、企(たくら)みがあるのかもしれません。
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