茶雅馬茶道教室 ~MIHO企画~

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聖福寺 栄西禅師

2008年03月07日 | Weblog
お茶のルーツを訪ねて聖福寺へ行ってきました。
なぜって?
お茶を始めてひろめた栄西禅師が創建したお寺だからです。
栄西禅師というと、建仁寺と思う人も多いと思いますが実はここからなんです。
とても街中とは思えない環境で穏やかになり美しかったです。
少しでも伝わればいいので、説明を・・・。

我国禅宗の始祖栄西禅師が宗国より帰国後建文6年(1195年)に創建したもので我国最古の禅寺である。
この山門の額には「扶桑最初禅窟(ふようさいしょぜんくつ)」と書いてあり、意味は日本で最初の禅寺という意味である。この額は後鳥羽天皇から贈られたものである。
広い境内には山門、仏殿、本堂、鐘楼などがあり境内全域が国の史跡になっている。
また、この周辺は寺社が多く俗に寺町と言われている。

 「茶は養生の仙薬なり…」ではじまる『喫茶養生記』を著し、お茶を日本に広めた人、栄西禅師。現代、あらためて健康によいと注目されているお茶の効能を、はじめて日本人に知らせた人物です。日本の茶の歴史は栄西の伝法とともに始まりました。 栄西が持ち帰った茶の種を捲いたのが、肥前と筑前の境界の背振山であり、2回目の帰着が肥前平戸島であることから、2回目の帰朝で持ち帰ったと考えられているようです。

茶の栽培

  栄西は茶の実を持ち帰るとすぐに捲いたようです。これは茶種の寿命は短く、夏を越すと70~80%は発芽力を失うこと、茶の栽培にどのような土地が適しているのかなどについて栄西はよく心得ていたのでしょう。茶種を捲いたと伝えられる場所の調査によると、その周辺には大きな寺跡があり、古い茶園も認められるといいます。栄西は布教とともに茶の栽培も積極的に行っていたことがわかります。栄西が茶栽培を推進した理由は、中国の4年間の生活で茶の養生延齢の効力を認めたからということと同時に、その不眠覚醒作用が禅の修行に必要であり、禅宗の行事に茶礼が欠かせないことも、その普及の動機の多くを占めていました。

栄西と明恵上人の出会い

 政治と結びつきながら日本流仏教が定着していた鎌倉時代に、宗から帰った栄西は、持ち帰った臨済の布教活動で、さまざまな政治的妨害を受けます。しかし栄西は禅の教えは国を守っていくものであるとする『興禅護国論』などの書物を著し、鎌倉に下り二代将軍頼家の帰依と庇護を受け、元久2年(1205)京都に最初の禅寺建仁寺を完成し第一世となり禅宗を広める土台を築きました。その2年後、明恵上人が京都栂尾(とがのお)に華巌宗の興隆を願って高山寺を中興し、たびたび栄西を訪れ問答をしていたといいます。栄西は、明恵に茶の薬効を話し、喫茶をすすめ、茶の実を栂尾(とがのお)に送ったのではと考えられます。さらに注目すべきことは京都の栂尾における茶栽培です。その後2世紀にわたり、栂尾における茶の栽培は盛んで、栂尾の茶を本茶、それ以外のものを非茶と称したほどだといいます。狂言「茶壷」にもこの坊の銘茶穂風のことが演じられるほどで、宇治以前の茶名産地が栂尾であったことがわかります。

喫茶養生記

  栄西は日本に茶生産を広めるため、またその薬効を知らせるために、承元5年(1211)『喫茶養生記』を著します。この書物は上下二巻からなり、茶の薬効から栽培適地、製法まで、細かく記されています。また、森鹿三氏の解説によると、喫茶養生記には初治本と再治本があり、再治本は、この3年後の建保2年(1214)1月に書写し終ったといいます。
お茶の効能について記した最古の記述は、鎌倉時代の記録書として有名な『吾妻鏡』。建保2年2月の条に、将軍実朝が宿酔(二日酔い)の際、栄西禅師から茶とともにこの書を献ぜられ、喫したところたちまち治癒されたと伝えられています。このことによって、上流階級の間で茶がもてはやされたことは言うまでもありません。
栄西は、再治本を記した翌年の建保3年(1215)7月、寿福寺にて没しました。
2026年栄西も没800年えお迎えるようです。
お茶文化も実に長いものに。
栄西は現代の茶文化を創造していたのでしょうか?
そう考えると人って、いや伝えるとは大変なことです。

心があらわれた気がします。