6
「なかなか感動的な映画だったわね」
私たちは映画館を出て、東京の街を歩いているところだった。私はふいにそう言った。「……あんなもの。お涙頂戴ものじゃねぇか」
沙弥は冗談をいった。私は、
「じゃあ、つまらなかった?」と歩きながら、尋ねた。
「いや………まぁまぁかな」
「まぁまあ?」
「まあな」
これじゃあ、会話になっていない。しかし、それはそれで楽しい思い出だった。
しばらく歩いていると、偶然、父をみかけた。私と沙弥が帰ろうとオフィス街を歩いている時だった。ちょうど夕方で、暮れゆく太陽の赤色がビルの窓に反射して、辺りをセピア色に染めていた。
交差点にはひとがどっと溢れ、信号が青になるのを待っていた。皆、せわしなく、きびしい顔をして、なんだか変だった。そんな時、現付きバイクに乗った私の父がそんな集団の横を通り過ぎた。きっと出前だ。私はそう思った。
でも、それは不思議な光景でもあった。
ほんの少し前、銀行マンだった頃の父も、交差点にたまっているエリートのひとりだったに違いない。まじめできびしい顔をして、信号待ちをしていたに違いない。
しかし、いまは違う。もうそんなんじゃない。父はいい意味で違ってしまったのだ。へらへらとTVをみて笑ったり、ゴロゴロして欠伸したり、そんな風にかわった。もちろんエリートのほうがいいってひともいるだろう。だけど、私はいまの父のほうが好きだ。
セカセカ働いて、いずれ過労で死ぬより、ラーメンや親子丼やらを作って680円や800円もらうほうが人間らしいではないか。私はそう思う。
その時、信号がかわり、どっと人が流れた。私と沙弥も歩きだす。そうしながら私は考えた。
その父と会社員やOL達とのすれ違いはほんの一瞬だったのに、父の変貌をかい間みせてくれた。それまでの、父の長い生活。私と母があのなつかしい田舎町で生活していたのと同じ時間、父はこの東京で呼吸していたのだ。仕事したり、ごはん食べたり、映画をみたり、同僚と赤ちょうちんにいったり、時には私と母を思い出したりして。
その間に、父は、私や母のことを捨ててしまいたい、と思ったこともあったろうか?
多分、あったに違いない。きっとあったろう。
父も人間だから、ストレスやいやなものをももっていたに違いない。人間は誰でも人生の中において嫌な目にあう。そして、どうしようもないドロドロしたものを心に持つようになる。それは誰だって例外ではないのだ。
だが、父はそれがいやだったのかも知れない。だから、「脱サラ」で食堂を始めたのだ。そして、私も父のように心のドロドロしたものを捨てたいと思っている。だから、とりあえず、他人には親切にしよう……そう思ってる。
「ねぇ、沙弥」私は言った。「これからどこ行く?」
「そうだな…東京ディズニーランドとか?」
「あはは…。ねぇ、ノーパンしゃぶしゃぶ行く? 沙弥」
「バーカ。…お前んちいこうぜ。汚ねぇ食堂にさ」
ふたりはあははと笑った。で、私が、「ねぇ、沙弥。うちのお父さんね。きっとあんたの顔みたらきくわよ」
「なんて?」
「”コンパとかないのか?”って」
「”コンパ”?」
「そう」私は笑った。そして続けた。「お父さんのクセなのよ。女の子みるとコンパは?コンパは?っていうのが」
「ふ~ん。かわったオヤジだな」
緑川沙弥は横顔のまま、微笑んだ。
やがて、私と沙弥は下町にある『黒野食堂』に歩きついた。すると、
「やぁ、沙弥ちゃん、ひさしぶり」
「沙弥ちゃん、元気だった?」
と、私の父と母が沙弥を出迎えた。
ここでも外ヅラのいい沙弥は、
「おひさしぶりです。おじさん、おばさん。お世話になります」と深々と頭をさげた。
「うんうん。まぁ……ちらかってるけど、中に入って」
「はい」
沙弥はもう一度頭をさげた。
「ところで……作家になったんだってね」
「えぇ、まぁ、一応」
「すごいね」父は感心した。そして、「じゃあ、印税ガッポリって訳だ」と言った。
「いえ。売れてないから……印税はまだですよ」
「ところで…」
「はい?」
「ところで…沙弥ちゃん。恋してる?」父は馬鹿なことをニコニコと尋ねた。そういえば、沙弥のボーイフレンドだった、あの小紫哲哉の死から、もう一年以上がたった頃だった。彼女に浮いた話しのひとつやふたつあってもおかしくない頃だった。
「してませんよ」沙弥はあははと笑った。
「そうか。そりゃあ寂しいね。コンパとかないの?」
父は私の予想どおりに、沙弥にそうきいた。ので、私は、
「ほらね」と彼女にウインクして見せた。
それに対して、緑川沙弥は苦笑するだけだった。
次の日、沙弥は仕事を終えると、足速に新幹線で米沢へと戻った。
米沢駅では、銀音寺さやかが沙弥を出迎えたという。そして、ふたりは歩きだした。自宅に向かって。ペンション『ジェラ』に向かって。
「おかえりなさい先生……お疲れでしょう?」
「いや、だいじょうぶだ」
「そうですか?……東京はどうでした?」
「まぁまあかな」
「そうですか。…ところで、今度は『オードリー・ヘプバーン』の伝記小説書いてらっしゃるんですよね?どうです、先生、執筆の調子は?」
銀音寺さやかは興味深々に尋ねたという。それに対して、沙弥は、
「それはやめた!というより保留だ。…いまさら『オードリー・ヘプバーン』の伝記小説じゃあ、世間や文壇へのインパクトが弱いからな」と言った。
「インパクト?先生は、そんなものを執筆の基準に…?」
「なぜ悪い?!」沙弥はキッとした目で言った。「私は成功するためにやっているんだ。そのためにはなんだってやるぞ」
「はぁ……そうですか…」さやかはそう言うしかなかったという。
やがてペンション『ジェラ』の看板が見える。ちょうどそんな時、沙弥はとんでもないことをしでかした。
「きゃあ」さやかは小さく悲鳴をあげて、真っ赤になった。沙弥がさやかのスカートをおもいっきりめくったのだ。通りすがりの男らはうれしそうにニタッと笑うと、そのまま通り過ぎてどこかへいってしまった。それからしばらくしてさやかが、
「なにするんですか、先生!パンツみられちゃったじゃないですか!」と真っ赤になりながら言った。それでも沙弥は気にもせず、無邪気に笑って、こういった。「けちけちしてんじゃねぇよ。みられてへるもんでもないだろう」
「そういう問題じゃありません」
「ばーか、パンツくらいでムキになんなよ」
沙弥は横顔のまま笑った、という。
「なかなか感動的な映画だったわね」
私たちは映画館を出て、東京の街を歩いているところだった。私はふいにそう言った。「……あんなもの。お涙頂戴ものじゃねぇか」
沙弥は冗談をいった。私は、
「じゃあ、つまらなかった?」と歩きながら、尋ねた。
「いや………まぁまぁかな」
「まぁまあ?」
「まあな」
これじゃあ、会話になっていない。しかし、それはそれで楽しい思い出だった。
しばらく歩いていると、偶然、父をみかけた。私と沙弥が帰ろうとオフィス街を歩いている時だった。ちょうど夕方で、暮れゆく太陽の赤色がビルの窓に反射して、辺りをセピア色に染めていた。
交差点にはひとがどっと溢れ、信号が青になるのを待っていた。皆、せわしなく、きびしい顔をして、なんだか変だった。そんな時、現付きバイクに乗った私の父がそんな集団の横を通り過ぎた。きっと出前だ。私はそう思った。
でも、それは不思議な光景でもあった。
ほんの少し前、銀行マンだった頃の父も、交差点にたまっているエリートのひとりだったに違いない。まじめできびしい顔をして、信号待ちをしていたに違いない。
しかし、いまは違う。もうそんなんじゃない。父はいい意味で違ってしまったのだ。へらへらとTVをみて笑ったり、ゴロゴロして欠伸したり、そんな風にかわった。もちろんエリートのほうがいいってひともいるだろう。だけど、私はいまの父のほうが好きだ。
セカセカ働いて、いずれ過労で死ぬより、ラーメンや親子丼やらを作って680円や800円もらうほうが人間らしいではないか。私はそう思う。
その時、信号がかわり、どっと人が流れた。私と沙弥も歩きだす。そうしながら私は考えた。
その父と会社員やOL達とのすれ違いはほんの一瞬だったのに、父の変貌をかい間みせてくれた。それまでの、父の長い生活。私と母があのなつかしい田舎町で生活していたのと同じ時間、父はこの東京で呼吸していたのだ。仕事したり、ごはん食べたり、映画をみたり、同僚と赤ちょうちんにいったり、時には私と母を思い出したりして。
その間に、父は、私や母のことを捨ててしまいたい、と思ったこともあったろうか?
多分、あったに違いない。きっとあったろう。
父も人間だから、ストレスやいやなものをももっていたに違いない。人間は誰でも人生の中において嫌な目にあう。そして、どうしようもないドロドロしたものを心に持つようになる。それは誰だって例外ではないのだ。
だが、父はそれがいやだったのかも知れない。だから、「脱サラ」で食堂を始めたのだ。そして、私も父のように心のドロドロしたものを捨てたいと思っている。だから、とりあえず、他人には親切にしよう……そう思ってる。
「ねぇ、沙弥」私は言った。「これからどこ行く?」
「そうだな…東京ディズニーランドとか?」
「あはは…。ねぇ、ノーパンしゃぶしゃぶ行く? 沙弥」
「バーカ。…お前んちいこうぜ。汚ねぇ食堂にさ」
ふたりはあははと笑った。で、私が、「ねぇ、沙弥。うちのお父さんね。きっとあんたの顔みたらきくわよ」
「なんて?」
「”コンパとかないのか?”って」
「”コンパ”?」
「そう」私は笑った。そして続けた。「お父さんのクセなのよ。女の子みるとコンパは?コンパは?っていうのが」
「ふ~ん。かわったオヤジだな」
緑川沙弥は横顔のまま、微笑んだ。
やがて、私と沙弥は下町にある『黒野食堂』に歩きついた。すると、
「やぁ、沙弥ちゃん、ひさしぶり」
「沙弥ちゃん、元気だった?」
と、私の父と母が沙弥を出迎えた。
ここでも外ヅラのいい沙弥は、
「おひさしぶりです。おじさん、おばさん。お世話になります」と深々と頭をさげた。
「うんうん。まぁ……ちらかってるけど、中に入って」
「はい」
沙弥はもう一度頭をさげた。
「ところで……作家になったんだってね」
「えぇ、まぁ、一応」
「すごいね」父は感心した。そして、「じゃあ、印税ガッポリって訳だ」と言った。
「いえ。売れてないから……印税はまだですよ」
「ところで…」
「はい?」
「ところで…沙弥ちゃん。恋してる?」父は馬鹿なことをニコニコと尋ねた。そういえば、沙弥のボーイフレンドだった、あの小紫哲哉の死から、もう一年以上がたった頃だった。彼女に浮いた話しのひとつやふたつあってもおかしくない頃だった。
「してませんよ」沙弥はあははと笑った。
「そうか。そりゃあ寂しいね。コンパとかないの?」
父は私の予想どおりに、沙弥にそうきいた。ので、私は、
「ほらね」と彼女にウインクして見せた。
それに対して、緑川沙弥は苦笑するだけだった。
次の日、沙弥は仕事を終えると、足速に新幹線で米沢へと戻った。
米沢駅では、銀音寺さやかが沙弥を出迎えたという。そして、ふたりは歩きだした。自宅に向かって。ペンション『ジェラ』に向かって。
「おかえりなさい先生……お疲れでしょう?」
「いや、だいじょうぶだ」
「そうですか?……東京はどうでした?」
「まぁまあかな」
「そうですか。…ところで、今度は『オードリー・ヘプバーン』の伝記小説書いてらっしゃるんですよね?どうです、先生、執筆の調子は?」
銀音寺さやかは興味深々に尋ねたという。それに対して、沙弥は、
「それはやめた!というより保留だ。…いまさら『オードリー・ヘプバーン』の伝記小説じゃあ、世間や文壇へのインパクトが弱いからな」と言った。
「インパクト?先生は、そんなものを執筆の基準に…?」
「なぜ悪い?!」沙弥はキッとした目で言った。「私は成功するためにやっているんだ。そのためにはなんだってやるぞ」
「はぁ……そうですか…」さやかはそう言うしかなかったという。
やがてペンション『ジェラ』の看板が見える。ちょうどそんな時、沙弥はとんでもないことをしでかした。
「きゃあ」さやかは小さく悲鳴をあげて、真っ赤になった。沙弥がさやかのスカートをおもいっきりめくったのだ。通りすがりの男らはうれしそうにニタッと笑うと、そのまま通り過ぎてどこかへいってしまった。それからしばらくしてさやかが、
「なにするんですか、先生!パンツみられちゃったじゃないですか!」と真っ赤になりながら言った。それでも沙弥は気にもせず、無邪気に笑って、こういった。「けちけちしてんじゃねぇよ。みられてへるもんでもないだろう」
「そういう問題じゃありません」
「ばーか、パンツくらいでムキになんなよ」
沙弥は横顔のまま笑った、という。