海外のニュースより

政治・経済・社会の情勢について書かれた海外の新聞や雑誌の記事を選んで翻訳しています。

「ニセ伯爵はアメリカ人であることが暴露された」と題する『ガーディンアン』紙の記事。

2006年05月10日 | 人物
 自分はバッキンガム伯爵という英国貴族であり、ハーロウとケンブリッッジ大学で教育を受け、領主の大邸宅を持っていると彼は主張した。だが、昨年、パスポート違反のかどで投獄されて以来、彼は自分の本当の身元を明かすことを拒否したのだ。
 昨日、警察は、イスラエル、南アフリカ、ドイツ、スイスにまで彼の痕跡をたどった結果、謎を解いたと確信した。「バッキンガム伯爵クリストファー・エドワードは、英国風アクセントでしゃべるのを好むフロリダ州クリーンウオーター出身のアルバート・ストップフォードである。」
 「この調査全体は、厄介なものだった。彼が身元を盗んだ男の赤ん坊の母親にとって、バッキンガム伯爵が本当は何者なのかをいぶかってきたこの男の前妻と子供達にとって、そして特にアメリカにいるチャールズ・ストップフォードの家族にとって」とケント州警察のポール・ブラットン刑事は言った。
 ストップフォードの本当の身元は、警察が指紋の照合をやった結果、確証された。彼は米国に移送されるかもしれない。
 ストップフォードの家族が彼に最後に会ったのは、1983年4月だった。翌年、彼は後に妻となるドイツ人のジョデイ某に自分は「クリス・バッキンガム」だと名乗った。
 ケント州警察での公表に先立って、ストップフォードの父親チャールズはスカイ・テレビに対して「写真を見た私の最初の感情は、自分の息子は生きているというホットした気持ちでした。次に感じたのは、これはいったい何だ。なぜあいつはこんなんことをするのかということです」と述べた。
[訳者の感情]他人になりすますというのは、そこから得られる利益とは別に、面白い経験かもしれません。アメリカ人が英国風の発音を真似るにはかなりの努力と才能が必要だったと思います。
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「北京,法王庁を挑発する」と題する『ヴェルト』紙の記事。

2006年05月06日 | 中国の政治・経済・社会
北京発:中国とバチカンは、法皇ベネディクト16世による中国人司教の破門予告後、氷河期に入った。バチカンの報道官ホアキン・ナヴァロ・ヴァリスは、今週、司教に任命された昆明在住のジョセフ・マー・インリン神父と安キ省の蕪湖在住のジョセフ・リウ・シンホン神父の破門の理由を教会の統一を傷つけたことにあると述べた。彼らの任命は、法皇の同意なしに行われた。彼らの聖職叙階は「非合法」である。教会法によれば、彼らは制裁を予想しなければならない。特にバチカンを怒らせたのは、中国の司教会議がローマと香港の枢機卿ジョゼフ・ゼンからのあらゆる批判を無視して、司教叙階を貫いたことである。それゆえ、破門は、更なる行動から教会を護るための警告である。
 中国外交部は、昨日金曜日に反応を示し、五月の祭日の後で政治的影響に対して態度を決めるつもりである。中国政府は、最近、ローマ教会との関係正常化を視野に入れたが、二つの条件を示した。国交正常化の第一条件は、台湾との外交関係を終わらせることであり、第二の条件は、中国の国内の教会政策に干渉しないことであった。
 「愛国的カトリック連合」の議長であるアントニウス・リウ・バイニャンは、『ヴェルト』紙に対して、司教を自分の手で任命するという彼の教会の権利に固執した。「われわれは任命を待っているわけにはいかない。われわれには50人の司教が足りない。適当な候補者がいる場合には、司教区は彼らを選んで任命しなければならない。香港の枢機卿ゼンによって政治的な動機からバチカンとの和解を阻止しようとしていると非難されたリウは、ローマの誤解について語った。「北京とバチカン両政府の関係正常化がない限り、中国のカトリック教徒達は板挟みになる。」
 独立の教会専門家は、彼らの愛国的心情で知られた候補者が選ばれた最近の聖職叙階を北京政府によってこれ見よがしに演出された挑発であると評価している。けれども、香港大学のアジア研究センターの宗教研究者であるジャン・ポール・ウイーストは、法皇ベネディクト16世の例のない厳格な反応に驚いている。彼の前任者は誰もこれまで中国人司教を破門しなかった。バチカンから独立したカトリック系の教会は1958年以来、自分で司教を任命してきたのだけれども。1951年にバチカンは、中国での展開を見て、法皇の前もっての承認なしに選ばれた司教の破門に関する教令を公布した。だが、ローマがその脅しを実行に移したことは一度もなかった。
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「アフガンのメディアにとって形勢は不利だ」と題する『アルジャジーラ』局の記事

2006年05月06日 | アフガン問題
 彼が冒涜の罪で投獄されて釈放されてから3ヶ月経つか経たないかである。ナサブは、他の宗教に改宗したり、姦通のような罪を犯したムスリムに体罰を課することを非難する内容のイランの学者が書いた「反イスラム的」な記事を公刊したかどで起訴された。
 女性の権利を擁護する指導的な月刊誌『ハコク・エ・ザン』誌の所有者兼編集者であるナサブは、昨年10月、懲役2年の刑を宣告されたが、何人かのイスラム聖職者が執行を要求したのに、たまたま上級裁判所への上訴に軽減された。
 「アラブ諸国やイランと比較すれば、われわれには言論の自由がある。だが、西欧諸国と比べると、自由は全くない。問題は、大抵のアフガン人が暗い心を持っていることだ」と彼は言う。
 サダム・フセインの没落以後のイラクにおけるように、タリバン後のアフガニスタンでは、メディア企業の数は何倍も増えた。
 アフガンの「情報文化省」によると、この国には現在、国営のテレビが5局、国営の通信社が3社、国営のラジオ局が10局あり、2001年以来少なくとも150社の出版社がある。
3千万人のアフガン人の30%がテレビを見ており、6つ目のテレビ局が計画中である。
 だが、ナサブの投獄やイスラム誹謗の罪で逮捕された2人のレポーターは、この国のメディアが航海しなければならない荒れ狂った旅路を例示している。
 国家によって財政的に支援されているメディア産業は、高度の文盲率と増大する無法によって無視されるという重大な危機に曝されている。
 公式の数字によると、人口の90%が文盲であり、他方では地方軍閥によって支配された34の州の多くにおいて、治安が悪化し、カブールの外で旅行したり仕事をしたりするジャーナリストにとって危険になっている。
 何十年も戦争が続いたせいで、輸送や電気などのインフラは、荒廃しており、新聞の輸送やテレビやラジオの放送は困難に満ちたものになっている。
 逆風に逆らって、アフガン政府は、表現の自由を保障しようと試みているが、他方ではイスラム法に基づく法体系を尊重している。政府は、イスラム教からキリスト教へ改宗した罪で投獄されていたアブドル・ラーマンを国際世論の圧力で釈放せざるを得なかった。
 ナサブがアフガン当局の怒りを招いたとき、彼はハザマに落ちた。彼は地方の司令官が首都カブールの外を支配している限り、政府は言論の自由を維持できないと思っている。
 「われわれに言論の自由がないというのは本当だ。なぜなら、誰かが軍閥について悪いことを書くとその人は殺されるからだ。われわれは現実には言論の自由をもっていない。 (言論の自由は)憲法には書かれているが、誰もこういう事を書くほど勇気がない」とナサブは言う。(以下省略)
[訳者の感想]アフガンニスタンの社会が現在どういう状況に置かれているか、日本では余り報道されないので、『アルジャジーラ』局のラジェシュリー・シソディア記者の記事を訳しました。
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「アルジャジーラ・テレビ、ヘクマチアル元首相の談話を放映」と題する『アルジャジーラ』局の記事。

2006年05月05日 | アフガン問題
「ヒズビ・イスラム政党」の創設者で指導者であるカルブ・アルディン・ヘクマチアルは、自分がオサマ・ビン・ラディンの側に立って戦う準備があり、パレスチナ、イラク、アフガニスタンにおける引き続く紛争は米国が干渉しているせいだと非難した。
 この反体制派の人物は、米国はイスラム諸国に侵入し、直接に支配するかあるいは彼らの代理人を押しつけることによって、この3ヶ国で戦争を始めたと述べた。
 アルジャジーラは、過去数年間政治的に沈黙していたヘクマチアルの声を初めて放送した。彼の演説で、ヘクマチアルは、1980年にアフガンニスタンに侵攻したソビエト軍と戦って駆逐した人たちに対して感謝を述べた。
「われわれはすべてのアラブ人戦士、特にオサマ・ビン・ラディンとアイマン・アル・ザワヒリと他の指導者に感謝する。彼らはロシアに対する聖戦を助け、偉大な犠牲を払った。」
イランとパキスタンに触れて、ヘクマチアルは、「諸君が知っているように、われわれの悪意ある隣人達は、われわれに対して米国を助け、モスクワも同様に米国を助けている。十字軍がわれわれの国を占領して以来、4年と6ヶ月が過ぎた。われわれの隣人達は米国を助け、モスクワは米国の側に就いている。」
アルジャジーラ・テレビは、モハメド・ハタミ元イラン大統領の顧問であるモハメド・シャリアティにインタービューを行い、このビデオについてコメントを求めた。
シャリアティは次のように言った。「事実、イランはアフガニスタン侵略を現実として扱ったが、パキスタンは、米軍の武器を国境を越えて輸送するのを援助した。その当時、ヘクマチアルは、パキスタンと繋がりがあり、アフガンの内戦に火をつけたと思う。私の見解では、ハタミ政権は現実を取り扱い、サウディ・アラビアのジッダで開かれたイスラム会議でこの問題を議論した。
「ハタミとビン・ラディンとは、異なる路線を取っている。彼らの一人は、暴力をイスラムを規定する手段だと考えているが、他方、ハタミは、暴力を否定し、特に文明の間の対話に敬意を払っている。イランは、ロシアの植民地主義やアメリカ支配に対してはアフガニスタンを援助し、道路建設にも手を貸した。」
 1980年代にヘクマチアルは、他のアフガン軍閥と協力して、ソビエトをアフガンから追い出した。1996年に、タリバンが権力を握った時、首都カブールを脱出するまで、彼は首相であった。現在、彼は彼の敵であったタリバンと連合しており、米軍は彼を追いかけている。
 彼はアフガンとパキスタンの国境地帯に潜んでいると考えられている。
 彼はイランへの亡命を認められたが、テヘランがカルザイ大統領を支持することに転じたとき、反政府軍としてアフガンに戻った。米国は現在、アフガニスタンに2万人の軍を派遣している。
[訳者の感想]「ウィキベディア」で調べたところでは、ヘクマチアルは、ソ連軍と戦ったときは、パキスタンとアメリカのCIAから何十億ドルもの支援を得たそうです。1992年から1996年までのカブールを巡る北部同盟とタリバン軍との攻防戦ではカブールの市街の70%を破壊しました。タリバンにカブールから追い出されされた後、イランに亡命しましたが、アメリカによるアフガン侵攻が始まると、アフガンに戻り、カルザイ政権が出来ると、2002年3月、ヘクマチアルはカルザイ大統領支持を表明。元国王の帰国も支持したようです。しかし、新政権で重要な位置が与えられないことが分かると、カルザイ大統領の暗殺を謀り、以後、ビン・ラディンと同盟を結んだようです。現在、アフガニスタンとパキスタンとの国境地帯に潜伏していると見られています。
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「ムサウイ、死刑を免れる」と題する『ヴェルト』紙の記事。

2006年05月04日 | テロリズム
 アレクサンドリア/ワシントン発:モロッコ系フランス人ザカリアス・ムサウイは、2001年9月11日のテロ攻撃の共謀者として終身刑の判決を受けた。12名の陪審員は、1週間に渡る協議の後、検事の死刑要求を退けた。判決によれば、ムサウイにとっては、彼の生涯の終わりまで、釈放の機会はない。彼は恐らくコロラド州の高度の保安設備をもった刑務所で刑期を務めなければならない。そこでは囚人は一日に23時間独房にいなければならない。
 9.11のテロ攻撃との関連で告訴された唯一の人物であるムサウイは、何ら感情を動かすことなく判決を受けた。彼が法廷から連れ出されたとき、彼は「アメリカよ、お前は負けた。俺が勝った」と叫んだ。裁判官のレオニー・ブリンケマは、ムサウイを「非常に厄介な人物」だと言ったとき、彼は法廷記者の述べるところによると、指でヴィサインをした。
 ブッシュ大統領は、「彼は公正な裁判を受けた」とドイツ連邦首相アンゲラ・メルケルとの会談の際、述べた。「終身刑によって陪審員はムサウイの命を救ったが、それは彼が罪のないアメリカ人に関してする用意がなかったことだ」と大統領は述べた。
 陪審員は最初の裁判過程でムサウイが4機の旅客機を乗っ取ってニューヨークとワシントンとペンシルバニアで3,000人を死に追いやったモハメド・アタの周囲の暗殺者の共謀者あることを決定した。
 死刑判決を下すためには全員の合意が必要であった。裁判所の広報官であるエドワード・アダムズによると、陪審員は、ムサウイに特に重大な事情の責任を負わせることができるかどうか、意見が一致しなかった。5人の陪審員は、彼がテロ攻撃の際、端役を務めたに過ぎないと確信していた。ムサウイは、テロ攻撃の3週間前にミネソタで逮捕された。彼はそこで航空学校で訓練を受けていたが、彼の教師が疑いを抱いた。原告は、ムサウイがテロ攻撃に対して共同責任があると主張した。ムサウイは、アルカイダが旅客機を誘拐し、建築物に誘導しようとしていることを知っていた。もし、彼が事情聴取の際に、白状していれば、テロ攻撃は未然に防げただろうと原告は考えた。
 これに対して、ムサウイの意志に反して、その生命のために戦った弁護側は、被告が精神的に障害を持っていると言った。原因は彼の家族にあり、彼の三人の姉妹と父親とは病気である。英国で経済学を学び、修士の学位を持つムサウイは、自分自身をテロの指導者ビン・ラディンの熱烈な信奉者だと称した。彼はアメリカに入国する前にアフガニスタンにあるアルカイダの訓練所にいた。
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「奴らに対しては誰も安全ではない」と題する『フランクフルター・アルゲマイネ』紙の記事。

2006年05月03日 | 中国の政治・経済・社会
「国境なきレポーター」がこれまでに突き止めた断罪された反体制派の三つの事例は、氷山の一角に過ぎない。
現在、48人のインターネットを使う活動家が牢獄にいるか、裁判を待っている。これは恐らく全部ではない。被告の中には、ジャーナリスト、教師、作家、学生、失業者がいる。彼らは政権批判者であって、政府に批判的なメールを書き、民主主義を支持した。逮捕者の内何人の場合に、ヤフーが荷担したかは、分からないとペインは言う。「10か20かもっと多くの事例があるかもしれない。」
「国境なきリポーター」は、該当者の名前を載せた一覧表をヤフー本社の所在地であるカリフルニアのサンバレーに送って、説明を求めた。ヤフーは沈黙している。「これはわれわれが戦っている最大の問題だ」とペインは言う。「ヤフーの策謀も中国当局の策謀もどちらも透明でない。情報を得ることは困難である。
だが、ヤフーと中国当局の間の協力がどのように機能しているのか。「インターネット警察」は、いつも同じやり方で仕事をしている。彼らは目立つブログや個人のサイトを調べている。彼らはメール・アドレスを手に入れようとし、彼らのコミュニケーションの詳細を伝達している。約3万人からなる中国のインターネット警察は、かなり強力である。彼らに匹敵する者がいないほど強力である。「糸口をつくるのに、電話一通かければいい」とペインは推測している。
 最も最近のケースでは、ジアン・リジュンの場合がそうだ。彼も西欧を手本にした民主主義の信奉者で、中国政府を「専制政治的」と言ったそうだ。ジアン・リジュンは、2003年11月18日に「国家転覆」の罪で4年の懲役刑に処せられた。
 「中国政府がこのような場合に課する拘留期間は、3年から13年に及ぶ」とペインは言う。被告に対する罪状を考えるならば、これはかなり長い。それゆえ、「国境なきリポーター」は、判決を閲覧しようと試みている。被告の家族が大きな不安を抱いているのでこれは非常に難しい。「警察は家族にわれわれと会わないようにと警告するのだ。」
 先月、ヤフーに対する圧力が増大した。アメリカ議会は、国務省がネット内の意見の自由の取り扱いを吟味する常任委員会を立ち上げるように割り込んだ。ヤフーは、判決を受けた反体制派について公式には動揺して見せた。「結局は、何も変わらなかった」とジュリアン・ペインは言う。ヤフーは相変わらず中国警察や役所と緊密に協力している。「責任者が中国で起こっていることが企業のイメージを大いに損なっているということに気づいたとき、恐らくヤフーはやり方を変えるだろう。」
[訳者の感想]護らなければならない個人情報を警察や官庁に要求されると提供するほどヤフーが情けない会社だとは知りませんでした。
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「イラク大統領、武装勢力と交渉中」と題するドイツの『ネット新聞』の記事。

2006年05月01日 | イラク問題
タラバニ・イラク大統領は、最近、7つの反政府グループの代表者と会談した。武装グループが武器を放棄する用意があると言明したことについてオプティミスティックであると大統領府は、日曜日に報道した。
イラクの指導層の代表者が、反乱軍との会談を公式に認めたのはこれが最初である。どのグループと会談したかについては、カムラン・カラダギ報道官は何も言わなかった。
既に昨年、タラバニ大統領は、反乱軍の代表者と話し合いをしたいと申し出ていた。その際、彼はイラクのアルカイダとフセイン元大統領のテロ組織とは会わないと言った。
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