海外のニュースより

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「不寛容は、イスラム教について無知であることの証拠」と題する『アルジャジーラ・ネット』に載った論説。

2006年05月27日 | イスラム問題
寛容は、キリスト教世界では、反宗教的だと見なされたが、それはイスラム教の主要な部分であった。だが、寛容はもはやムスリムの名誉にはならない。
今日では、あるムスリムは自分自身を「宗教的」であると見なせば見なすほど、それだけ一層寛容ではない。その原因は、イスラム文明が知的に衰退したことにある。
 ムスリムたちは西欧の人々にイスラム理解が欠けていることに不平を言うが、宗教的テキストの解釈におけるこの間違いが、不幸なことにムスリムの心には蔓延している。
 アブドル・ラーマンのキリスト教への改宗、西欧からの大きな圧力によってアフガン政府が彼を死刑宣告から赦免したこと、その影響などは、この混乱を明るみに出した。
 このアフガン人の背教者が精神病であろうとなかろうと、イスラム教の経典や原理に関して言えば、裁判全体がナンセンスである。
 ある人の知的選択を理由にして、その人を殺すということは、信仰と礼拝の自由についてのイスラム的原理の本質に矛盾する。この原理は、『コーラン』と預言者ムハンマドの実践のなかで強調されている。平和がムハンマドの上にありますように。
 自分のイスラム的信仰を変えることは、重大な罪である。それは彼の神との個人的な契約のはなはだしい侵犯である。
 『コーラン』は、イスラムの信仰を変えるものたちを繰り返し断罪しており、最後の審判における厳しい処罰について警告している。だが、『コーラン』は、背教に対する世俗的な罰を定めてはいない。それゆえ、あるムスリムが自分の信仰を変えたいと望むならば、そうさせるがよい。定義によれば、信仰は個人の心から流れ出す。イスラム教は勇敢な信仰者のためにあり、臆病な偽善者のためのものではない。
 信仰が個人の選択と確信の問題であるという点で『コーラン』は、はっきりしている。それゆえ、いかなる強制力もある信仰を受け入れるように、あるいは彼らの信仰を変えるように人々を強制するのに使われてはならない。
(省略)
今日のイスラム文化において最も不幸な現象は、道徳性と合法性との区別がないことである。
「正」と「不正」によって、特定の人間行動を判断することは、相対的に容易である。だが、包括的で実践的であることは、われわれにもっと先へ行くことを要求し、行動が非合法、あるいは不道徳であると判断されるべきかを決定することを要求する。
 この区別は、非常に重要である。なぜならば、人々や機関は、自分たちが間違っていると信じるものに対してどう反応するかを決定せねばならないからである。ある行為は、合法的であるが、非道徳的であるかもしれない。あるいは逆に道徳的ではあるが、違法であるかもしれない。
 イスラム法にいては、道徳性と合法性との間には明白な区別がある。ほとんどすべてのイスラム法は道徳的である。
 その生活で道徳性に忠実であることは、個々の信者の責任である。それは神に対する責任であって、人々に対する責任ではない。イスラム的道徳性を課するために、如何なる強制力も用いられるべきでない。
 その理由は、この種の如何なる強制力も否定的な帰結をもたらすからである。それは個人を神を意識した信者から状態を恐れる偽善者に変えることによって、個人の道徳的良心を堕落させるからである。
 イスラム教は、個人が神に仕える者であることを欲するが、状態の奴隷であることを欲しない。イスラム教においては、あらゆる信仰の問題や個人の行動と選択の問題は、道徳的な性質のものであって、合法的な性質のものではない。(省略)
 不幸なことに今日、多くのムスリムは、何人かの自称「学者」を含めて、道徳性と合法性とを明確に区別しない。
 この知的混乱は、いくつかのイスラム政府が個人的確信や市民の選好の中に介入し、自分たちは神の法を適用しているのだと主張することを可能にしている。こうすることによって、彼らは人々の権利を侵害することによって、自分たちの不法性と無責任性とを覆い隠しているのだ。
 だが、もし、『コーラン』がはっきりと信仰の自由を肯定しているとしたら、なぜ、背教者を殺すことについての議論がおこるのか?
 この問題は、背教に対する処罰として死刑を示唆する若干の「ハディット」(ムハンマドの言葉)についての間違った解釈から始まる。
 混乱の源は、「背教」(riddah)という語は、イスラム教のテキストでは、二つの異なる意味で使われている。第一の意味では、それは私的な背教を意味し、それは知的選択であって、イスラム教では罰の対象ではない。第二の用法では、それは政治的軍事的背教を意味している。それは共同体の社会的平和とその合法的指導者に対する反逆を含んでいる。
 この罪に問われたものは、イスラム法によって、罰することができる。
社会を裏切ることは、すべての神の法と世俗の法の元で処罰可能である。この点では、イスラム法は例外ではない。
 今日アフガニスタンには裏切る政治的指導者や部族の指導者が沢山いる。彼らはイスラム法における高度の裏切りの罪で消されても当然である。
 彼らのある者は、新しいアフガンニスタンの「尊敬される」指導者の中にいる。アブドル・ラーマンは、明らかに彼らの一人ではない。
[訳者の感想]道徳性と合法性との区別がイスラム教にもあるということに基づいて、キリスト教に改宗したアブドル・ラーマンに死刑の判決を下したアフガンの法廷を批判しています。アルカイダやタリバンのイスラム法解釈と違うことは分かりましたが、最後の文章を読むとどうもカルザイ大統領の率いるアフガン政府に対してもかなり批判的であることが分かります。筆者はモハメド・エル・モクタール・エル・シンキティというアフリカ西部の国モーリタニア出身のイスラム学者で現在はアメリカ在住です。

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