海外のニュースより

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「優しい想い出の宝」と題するチュービンゲン市立博物館の記事。

2009年03月29日 | 人物
1791年2月12日、ゲオルク・フリードリヒ・ヘーゲルは、彼の運命の重荷にひしがれていた。禿頭で、長い髭を生やし、老人の姿で、裸足で、修道服に身を包んで、二本の杖をついている。彼の友人のゲオルク・フリードリヒ・ファロットの信心深い願いが書き込まれている。「神がこの老人を助け給わんことを!Aさん万歳!」このとき、ヘーゲルは20才だった。(ヘーゲルのあだ名が「老人」だったことはよく知られています。訳注。)
ファロットが友人の立ち居振る舞いのぎごちなさと不器用さとを戯画化した絵は、ヘーゲルの記念帳に見出される。この記念帳は、当時、多くの学友と同様、この神学生ヘーゲルが携行していたものだ。これらの友人のアルバムには、友人や同僚、あるいは、地位の高い人物の名前が書き込まれているのだが、それは、17世紀の前半に、詩のアルバムの先駆者として現れ、その起源は、おそらくヴィッテンベルクにある。そこでは、ルターとメランヒトンが教えていて、ドイツ中から学生を惹きつけていた。既に1566年には、メランヒトンの最初の伝記作者であるヨアヒム・カメラリウスは、自分の本に献辞を書いてほしいという学生の願いに対して、メランヒトンが示した驚くべき熱心さについて報告している。この宗教改革者は、しばしば、数ページも献辞を書いたので、彼以外の人が書き込む場所がなかった。それゆえ、ヴィッテンベルク大学の学生達は、本の中に白紙を挿入して製本させ、そこに、後で、余り有名でない同時代人や自分の友人グループにも記帳をさせたのだ。
 ルターとメランヒトンの死後、すぐに、この記念帳の売買が始まったとき、献辞用の挿入紙は、本からは切り取られ、記念帳に挿入された。それは、1550年頃、既に、ドイツの広範な部分に広まっていた。次第にサインや献辞が書き込まれ、製本されたこの記念帳のコレクションや本の見返しがあの「優しい想い出の宝」となった。ゲーテが次のように書いたのは、1800年11月22日に彼の息子アウグストの記念帳が差し出されたときだった。記念帳がどのような役割を演じるのか息子に初めて説明せねばならないかのように、ゲーテはその使用法を4行詩に書いた。
「この本を恩恵を与える人に出しなさい。友人や遊び友達に出しなさい。
 そばを通り過ぎる急いでいる人に出しなさい。
 親切な言葉や贈り物をくれた人に出しなさい。
 優しい想い出の宝を積みなさい。」
だが、しばしば、記念帳は自分で旅に出て、所有者が旅行の途中で出会った人を書き留めた。コーブルク出身のヨハン・フリードリヒ・ヴァイスは、ライプチヒ大学の学生で、後にニュルンベルクで開業医になったが、彼は1625年から1633年まで、アムステルダム、ロンドン、ライデン、パリ、オックスフォード、ケンブリッジ、ナポリ、ローマ、フィレンツェ、ヴェニスを旅行し、ヴェニスではガリレイと知り合いになった。ガリレイは、彼の記念帳に双曲線を書き、ラテン語で「私に近づいても、私は一緒には行かないだろう」(Accedens non conveniam.)と書き込んだ。
 ヴァルター・イェシュケの書いたた『ヘーゲル・ハンドブック』の伝えるところでは、若いヘーゲルは、学友の間では、非常に「キス好き」で知られていたが、若い女性との交際では、はっきり、不器用だった。ファロットの書き込んでいる「Aさん」というのは、当時、学生達の間で人気があったチュービンゲン大学教授の娘アウグステ・ヘーゲルマイアーのことである。ヘーゲルがどの程度、成功したかは知られていない。(以下省略)
[訳者の感想]『フランクフルター・アルゲマイネ』紙に載ったチュービンゲン市立博物館で現在開催中の「記念帳」の展覧会について書かれた記事です。ガリレオ・ガリレイの書き込みが残っていたというのが面白いと思いました。
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