海外のニュースより

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「展覧会は、ロンメル神話を崩すか」と題する『ヴェルト・オンライン』の記事。

2008年08月19日 | 人物
「砂漠の狐」は、黒い革マントを着、視線を地平線に集中させていた。戦車の上で背中を伸ばし、双眼鏡を首にかけ、胸には勲章をつけたエルヴィン・ロンメル--北アフリカ戦線の天才的な司令官というイメージは、ある世代の集団的記憶の中に焼き付いている。
それは偶然ではない。「ロンメル神話」は、60年以上前に、ナチの宣伝機関によって創り出された。シュツットガルト市の「歴史館」に勤める学者達は、目下、なぜ、ヒトラーの戦術家が今日まで魅力を失わないのか研究している。
エルヴィン・ロンメルは、1891年、数学教師の息子としてハイデンハイムに生まれた。軍隊における急速な昇進と第一次大戦における大きな成功の後、アドルフ・ヒトラーは、シュヴァーベン出身の陸軍中将をリビアに派遣した。
二年間、彼は北アフリカでイギリス軍と戦った。イギリス軍がドイツ兵を押し返したとき、ロンメルは、ベルリンに呼び返され、イタリア戦線とフランス戦線に投入された。1944年、彼は7月20日のヒトラー暗殺計画に巻き込まれたという容疑を受けた。三ヶ月後、ヒトラーの密使は、彼を自殺するように強いた。
 国家的英雄へとロンメルを持ち上げることは、アフリカ派遣とともに始まり、ある注意深い計画に従っていた。1941年11月、ゲッベルス宣伝相は、日記に次のように書き込んだ。「私は北アフリカの戦闘が決定した場合、ロンメルを一種の国民の英雄にするよう進言している。」
 ロンメルの相次ぐ成功は、東部戦線における失敗から国民の目を逸らせ、銃後の国民に安心感を吹き込むはずだった。「ロシア戦線がまずくなればなるほど、それだけ一層多く、ロンメルはニュース映画に登場した」と「歴史館」の歴史家であるコルネリア・ヘヒトは言う。
 ロンメルは、ナチの宣伝にとってうってつけだった。野心的で大胆で強固な意志をもち智恵のある司令官のポートレートは、無数の絵はがきやポスターに描かれた。
 一年前から、ヘヒトは、同僚と一緒に特別展のための資料を集めた。その際、ロンメルの息子から支援を受けた。息子のマンフレート・ロンメルは、「彼がシュツットガルト市長だった時代から『歴史館』に対して非常に肯定的だった」と館長のトーマス・シュナーベルは言う。「協力は非常に積極的でした。」
 エルヴィン・ロンメルとはどんな人だったかは、にもかかわらずはっきりしない。「この神話化された人物がどんな人だったかを言うことはとても難しい」とヘヒトは言う。三十年間の結婚生活で彼は妻に沢山の手紙を書いたが、ユダヤ人迫害や他の重要な政治的なテーマについては、ほとんど何も言わなかった。父として夫としての彼の生活は、野戦将軍のイメージ作りには重要ではなかった。
 死の少し前に、ロンメルはある手紙でヒトラーに降伏するように要求した。戦争は、もはや、勝てない。ロンメルは戦争を終わらせようとしたのだ。
 その上、彼がシュタウフェンベルク伯爵によるヒトラー暗殺計画を支持はしなかったが、少なくとも知っていたと言う理由で、ヒトラーは、ロンメルに選択を迫った。国民裁判所での裁判と彼の家族には恥辱が与えられるか、それとも自殺と国葬されることとのどちらを選択するか。1944年10月14日、ロンメルは、青酸カリのアンプルを飲んだ。
 後には、盛大な葬儀や、記念碑の計画、映画の中での追悼、ナチ党新聞での特別号が続いた。
「彼の死は、神話としての演出の頂点だった」とヘヒトは言う。ロンメルはヒトラーに背を向けたがゆえに、この神話は、戦後も生き続けた。1952に制作された映画「砂漠の狐」や、1953年に制作された「これが我らのロンメルだ」は、この神話と結びついている。
「歴史館」の「特別展示ロンメル神話」は、今年12月18日に開かれる予定。
[訳者の感想]ヒトラーでさえ、国民的英雄を反逆者にはできなかったのだろうと思います。ロンメル将軍自身が自分の神話を壊したくなかったのかもしれません。
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