白鷺だより

50年近く過ごした演劇界の思い出話をお聞かせします
     吉村正人

白鷺だより(49) 山田洋次はなぜ松竹のエースになったのか

2016-04-18 16:42:42 | 思い出

 1948年松竹大船撮影所は戦後一回目の助監督公募を行い、
松山善三、中平康、斉藤武市、鈴木清太郎、井上一男ら8人が採用された試験でカンニングが発見された。
見つけたのは後に日活へ行く西河克己である。
判定会議の席で吉村公三郎に「どっちが教えたかわかるか?」と聞かれた西河は「わかります」と教えた方を示し
「こっちがこっちへ教えたのです」そして大庭秀雄監督が「それなら教えた方を採用して、教わった奴を落とすべきだ」と言った。
教えた受験生は遠藤周作といった。身体検査で胸部疾患が発見され、不採用になった。

1954年 西河克己はすでに日活からの誘いを受けていたのだが最後のご奉仕として試験官を引き受けた。
その年は今村昌平、中平康、鈴木清太郎(清順)らが「上がつかえていいこうに監督になれない」不満から日活へ移籍することになり
8人もの助監督を採用する予定になっていた。
一番は京大の大島渚で西河はこういう優等生タイプが大船映画の伝統を引き継いでいくのだろうと思った。
しかしこの8人枠でも山田洋次は落ちたのである。
重役のコネがある男を入れるあおりで合格点に達していたのだが落ちたのである。
山田は日活にも合格していてそちらへ行くつもりでいた。
ところが一人分あきが出来て補欠で繰り上がった。
「あき」の原因は名古屋大の浦山桐郎が作った。試験では3番であったが体格検査ではねられた。
浦山は憤慨して松竹にねじ込んだがくつがえらなかった。
そこですでに日活行きを決めていた試験官の鈴木清太郎(清順)に出会い、鈴木清太郎が松竹に行った山田のあきに浦山をねじ込んだのだ。
結局山田洋次と浦山桐郎は入れ替わって入社したのである。

繰り上げ合格になった山田は試験官の西河に両方の合格通知をもって相談した。
西河の答えはこうだ「俺は日活にいくが君のいいようにしなさい、しかし日活は今後どうなるかわからない、
松竹は伝統のある会社だから、その辺をよく考えるように」と暗に松竹行きを勧めた。

大島の書いたものを見ると同期入社が11人いたという、
そのうち結核で一日も出社しないまま退社した一人 
コンパの後東海道線に轢かれて死んだ一人、
同人誌に一作だけ書き残し軽井沢で死体となって発見された一人、
残りは8人となり色々あり・・大島も色々あって・・・
やがて山田洋次のみになって・・・松竹大船の伝統が守られて名監督と言われる・・。


名監督は丈夫でなくっちゃ・・・



    


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