インディオ通信

古代アメリカの共感した者の備忘録8年。

英語をやる。

2013-09-07 19:41:18 | 身の回り
  9月になり、部屋の温度が落ち着いてくると、雅太は部屋のカーペットを取り替え、雰囲気を変えてみる。6畳の白いカーペットは部屋の印象を温かみのあるシンプルなものに変え、寝転んだ雅太はペーパーバックを捲ってみる。原書は言葉の力が強いのか、翻訳版とは違った方向から、雅太の脳みそに抉り込んでくる。そのせいか、昨夜は雅太は夢の中で奇妙な講義を聴いたのである。それは日本人は古代のような循環社会に戻るしかないという内容であった。聴講生には死期の近い黒人も混じっており、皆が質問やら賛成をしていた。その教授曰く、商品が売れるのはその商品に「支配力」があるからだ、という。買い手が良いと思えば、革靴や米などでも、価格が高くても売れるのだと。雅太は夢の中で質問した。貧乏人は価格でチョイスするのが現実ではないかと。岡山の山奥では循環社会が実践されているようだ。目覚めた雅太は、確かに支配力のある商品は存在するし、書物、小説などはその際たるものであると思った。『流転の海』の支配力は、第五部まで読者を引きずり込む力があり、カスタネダにしても、原書で読ませようとするほどの魅力があるのである。

 支配力は、時と場合によって変わる。雅太の趣向も、食べ物を例にとるなら、真夏のスイカから、初秋のイチジクに変わっていた。尾道は産地であり、雅太のアパートの周りにも鬱蒼としたイチジク畑が広がっていた。地産地消の販売店で格安なため、雅太は次から次へとイチジクを剥いでは食べていた。手頃な値段ということも大きいが、雅太はイチジクに支配されていたのであった。

 素晴らしいものを消化するための障害は、お金だったり、個人の能力だったり、縁、すなわち最初のキッカケだったりすると、雅太は考えながら、有機コーヒーを一口すする。その点では、雅太にはカスタネダの原書を解読するだけの能力が、ちょっと足らないのではないかと思い、「反復」のためちょうど実家から持ち帰っていた英語の参考書を手に取る。シグマ集中ゼミ 英文読解とある。繰り返して勉強した雅太は懐かしさを感じた。パラグラフ・リーディングが解説され、やはり国語力以上に、英語は読めない。しかし英文の公式のようなものに慣れていなくては、明確に理解することもできないわけである。雅太は受験生にでもなったつもりで、that節の項目を眺める。確かにthatは至るところに出てくる。主語・補語・目的語の「~ということ」の名詞節、名詞+that「~という」の同格、so~that…のような「とても~なので…」という副詞節、さらには関係代名詞の時もあるようだ。雅太はitにも、注意しなければならないことを思い出す。そういえば、英文読解では「関係詞」というのが、主格、目的格、所有格になったりして、英文の読み手を困惑させていたのを思い出したりする。単語さえわかれば、英文は曖昧には読めるが、認識のレベルは構文の理解度によって違ってくるのだろう。書き手のカスタネダが文化人類学者であるためか、内容も難しそうだ。雅太は日本語で分からない部分は、ひょっとして原文で直接わかるのではないかと期待していたが、その前に「英文読解」をやらねばならないのかと大きく息を吐くのであった。