インディオはそれほど若くはないが、経験を積んだ60過ぎの年配者から見れば、赤子のようなものである。
『雀鬼 無敵の勝負論』桜井章一(青春出版社)なる本を見つけた
20年無敗だったというから、超能力があるには違いない(麻雀の代打ち=命がけ)
インディオは賭け麻雀などやるはずはないが、中国ではそこらの小学生でもやっているようだ。
ふつう、麻雀で勝ち続けるというのはありえない。最初の配牌でほぼ決まるからだ(ポーカーもそうだ。人生もそうか…)。
将棋と違い、プロだって素人に負ける世界だから、超能力でもない限り、勝ち続けられない。
それにしても…
善人とは思われない外見だわい(朱に交わったせいか?)
だが、著作物を読んでみると、これがなかなか、どっかのインディアンの長老みたいな考えを持っておられるのだ。
桜井章一さんインタビュー参照
彼は「約束は他人とではなく、自分とするもの」「良い約束は調和を生む」といい、
今はもう掟といえるようなものもない社会になってしまった。インディアンといわれたアメリカの先住民にはちゃんと掟があった。そして彼らの掟とは、何よりも自然との調和を図るためのものであったはずだ。
現代の法律や規制などは、結局のところ権力者が庶民を統治するために作った計略でしかない。正直、私はそうした決まりには馴染まないものを感じている。ネイティブ・アメリカンやオーストラリアのアボリジニーや北海道のアイヌなど、少数民族の掟は法律や制度のような人工的なものではなく、自然の摂理に従って生まれてきたものである。
そこには仲間を導くよい指導者もいたはずだ。そしてその掟が厳しいものであったとすれば、それは何より彼らを取り巻く自然自体が厳しいものだからだろう。自然と結びついている掟には、私にも納得感がある。そして雀鬼流麻雀におけるペナルティは、そうした掟に通じるものとして設けているつもりだ。
自然は自由そのものである。だから若い人を指導する中には、自然の感覚を入れていかなければならないと思う。政治経済や法律など人工的なものに縛られていては、我々は自然から、ということは自由から離れていってしまう。掟とは人間を自由に近づけるためのものでなくてはならないのだ…
う~ん、かなり説得力がある。
ただ、個人が自由に動くのが徹底的に許されるということは、能力の差が激しく拡大するということで、かなり不平等になってしまう
桜井氏の言葉を解釈するなら、「自由」は、自然の調和が保てるための「掟」に従わなければならないということだろう。
草食動物を食べ過ぎて、子孫を増やした猛獣・猛禽類は、そのうち餌がなくて苦しむようになる。
現在の不況にも当てはまり、海外は売れるからと、どんどん製造し、輸出した企業は、今は…。
ならば、「自然の掟」に従って経営していた会社は…、いや、株式会社という経済システム自体が、自然の掟に反しているのではないか??
「自由な市場経済」は、自然の理に適っていて価格決定とかは「神の見えざる手」とか呼ばれている(理論上)。
しかし、実際は医療や福祉、保育・教育や公共サービスなどでは「自由な市場」は失敗するので、最初から政府が介入している。本当は食品とかも、自由競争をやれば、農村が持たない。都会でも貧乏であればろくな物が食えないし、安い毒の入った餃子もある。添加物や農薬の多い食品ばかりでは、将来、医療費も増大するだろう。
そもそも食べ過ぎ自体、身体に良くない(カロリー制限すべき)。
ラビ・バトラのプラウト経済とは、「自然の掟」に従う経済システム …ってことかな。
『雀鬼 無敵の勝負論』桜井章一(青春出版社)なる本を見つけた
20年無敗だったというから、超能力があるには違いない(麻雀の代打ち=命がけ)
インディオは賭け麻雀などやるはずはないが、中国ではそこらの小学生でもやっているようだ。
ふつう、麻雀で勝ち続けるというのはありえない。最初の配牌でほぼ決まるからだ(ポーカーもそうだ。人生もそうか…)。
将棋と違い、プロだって素人に負ける世界だから、超能力でもない限り、勝ち続けられない。
それにしても…
善人とは思われない外見だわい(朱に交わったせいか?)
だが、著作物を読んでみると、これがなかなか、どっかのインディアンの長老みたいな考えを持っておられるのだ。
桜井章一さんインタビュー参照
彼は「約束は他人とではなく、自分とするもの」「良い約束は調和を生む」といい、
今はもう掟といえるようなものもない社会になってしまった。インディアンといわれたアメリカの先住民にはちゃんと掟があった。そして彼らの掟とは、何よりも自然との調和を図るためのものであったはずだ。
現代の法律や規制などは、結局のところ権力者が庶民を統治するために作った計略でしかない。正直、私はそうした決まりには馴染まないものを感じている。ネイティブ・アメリカンやオーストラリアのアボリジニーや北海道のアイヌなど、少数民族の掟は法律や制度のような人工的なものではなく、自然の摂理に従って生まれてきたものである。
そこには仲間を導くよい指導者もいたはずだ。そしてその掟が厳しいものであったとすれば、それは何より彼らを取り巻く自然自体が厳しいものだからだろう。自然と結びついている掟には、私にも納得感がある。そして雀鬼流麻雀におけるペナルティは、そうした掟に通じるものとして設けているつもりだ。
自然は自由そのものである。だから若い人を指導する中には、自然の感覚を入れていかなければならないと思う。政治経済や法律など人工的なものに縛られていては、我々は自然から、ということは自由から離れていってしまう。掟とは人間を自由に近づけるためのものでなくてはならないのだ…
う~ん、かなり説得力がある。
ただ、個人が自由に動くのが徹底的に許されるということは、能力の差が激しく拡大するということで、かなり不平等になってしまう
桜井氏の言葉を解釈するなら、「自由」は、自然の調和が保てるための「掟」に従わなければならないということだろう。
草食動物を食べ過ぎて、子孫を増やした猛獣・猛禽類は、そのうち餌がなくて苦しむようになる。
現在の不況にも当てはまり、海外は売れるからと、どんどん製造し、輸出した企業は、今は…。
ならば、「自然の掟」に従って経営していた会社は…、いや、株式会社という経済システム自体が、自然の掟に反しているのではないか??
「自由な市場経済」は、自然の理に適っていて価格決定とかは「神の見えざる手」とか呼ばれている(理論上)。
しかし、実際は医療や福祉、保育・教育や公共サービスなどでは「自由な市場」は失敗するので、最初から政府が介入している。本当は食品とかも、自由競争をやれば、農村が持たない。都会でも貧乏であればろくな物が食えないし、安い毒の入った餃子もある。添加物や農薬の多い食品ばかりでは、将来、医療費も増大するだろう。
そもそも食べ過ぎ自体、身体に良くない(カロリー制限すべき)。
ラビ・バトラのプラウト経済とは、「自然の掟」に従う経済システム …ってことかな。
そうですねぇ。昔と違って、社会システムが複雑になっていますからねぇ。
産業が発達して、その一部分を担う存在にしか過ぎなくなったので、「仕方がない」のですねぇ。
それでも(豊かな?)部族なら、小人やら奇形が生まれても、「神が労わるように授けた存在」として遇されていたようです。逆に健康な若者を生贄にしたり…。
みつくちの人間はジャガーの生まれ変わりとして崇められていたり…。
古代アメリカ世界は、発想がユニークだったようですよ。
>現代の法律や規制などは、結局のところ権力者が庶民を統治するために作った計略でしかない。
同感です。社会が、進歩しているので、仕方がないのでしょうね、、、。
そして、むか~しは、人間、という動物で、見た時に、
能力や、体力、生まれつき、のことで、
捨てられてしまう、などということも、
あったのだと思います。
いわゆる、奇形、というのでしょうか、、、。