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私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

北区歴史と文化の八十八選巡り №10

2022-07-20 14:00:57 | 札幌市・北区歴史と文化の八十八選巡り

※ 蔵出し第3弾である。№9で新琴似地区にある新琴似神社境内の9件を一挙レポしたが、新琴似地区では3件が残ってしまったので、その3件をレポする。

 今回レポする3件はいずれも当時を偲ぶ具体物が無いという、なんともレポしづらいものばかりが残った。レポする側としては苦しいがお付き合い願いたい。

42〉歌人・若山牧水来訪の地 

   

    ※ 現地で来報の地と分かるのはこの看板一枚だけでした。

 大正時代というとまだまだ首都圏との交流が難しかったと思われるが、歌人・若山牧水は道内の歌人と交流があったようだ。下記の説明文にも出てくるが、この地に居住していた歌人・吹田晋平と一夜歓談を楽しんだようだ。その地は、現在の新琴似小学校の直ぐ近くで、ちょうど新琴似神社の道路向かいにあたる地である。周りには当時を偲ぶものは何もなく、説明板だけが道路脇に立っていた。その説明板には次のように書かれていた。

   

   ※ その看板は建物の片隅に設置されていました。右奥の建物は新琴似小学校の校舎です。

   

    ※ 来訪の地の看板は道路を隔てて、新琴似神社の向かいに設置されていました。

「旅と酒をこよなく愛した歌人・若山牧水が喜志子夫人を伴い、この地を訪れたのは大正15年(1926年)11月14日。牧水が主宰する歌詩(誌?)「創作」の社友・白水春二宅で一泊。新琴似短歌会同人と歓談した。ときに42歳。新琴似で詠んだ歌はないが、紀行文の一節に「咫尺(ししゃく)は辯ぜぬ(注:視界がきかず、近い距離でも見分けがつかないこと)という吹雪に出會ったのは(中略)札幌から新琴似村に行く宵闇のなかであった」と記されている。そして翌朝、30センチほど積もった雪の中を、同社友・吹田晋平の仕立てた馬そりに乗り、鈴の音をききながら札幌へ向かった。」と記されています。

          

          ※ 歌人・若山牧水の顔写真です。

〔住 所〕 北区新琴似7条3丁目 

〔訪問日〕 6月6日

 

43〉新琴似歌舞伎の跡地

   

    ※ 新琴似歌舞伎の跡地も、この看板だけが当時を偲ぶものでした。

 この新琴似歌舞伎座の跡地も何の形跡も残ってはいなかった。跡地にはニトリ麻生店が建っていたが、劇場跡と考えると現在のニトリ店舗の敷地ほど広くはなかったとしても、なんとなくそうした劇場が建っていた跡かなぁ、と思わせる広さだった。その道端に立っていた説明板には下のような説明が書かれていた。

   

    ※ 跡地と思われる所には、現在「ニトリ」の大きな店舗が建っていました。

   

   ※ 跡地から少し行くと、地下鉄麻生駅があり繁華街が近いところに建てられていたようです。

 「明治30年頃から20年後の大正5年(1916年)まで、新琴似では農村青年を中心に開拓を支える慰安として歌舞伎が華やかに演じられていた。当初は、新琴似神社境内で上演されていたが、最盛期には屯田兵2世も加わり明治43年(1910年)には収容能力が310人の常設劇場「若松館」が開設された。ここはその劇場の跡地である。道内の農村芸能史上、常設劇場が建設されたことは珍しいことであり、同時代に存在した篠路歌舞伎とならんで北区の貴重な農村文化史を語る。」と記されていた。

           

          ※ 当時の新琴似歌舞伎の舞台の様子を伝える写真です。

 〔住 所〕 北区新琴似7条1丁目 

〔訪問日〕  6月6日

 

〈44〉帝国製麻琴似亜麻工場跡

   

 この工場跡も工場跡は跡形もなく、その跡地は現在の麻生球場付近と言われている。工場関連施設は球場付近だけではなく、もっと広大に広がっていたようである。下記の説明にもあるように工場長宅があったと言われているところは、麻生球場からはかなり離れたところだった。下記の説明にもあるようにアカマツが残っているところを探したが、なるほど住宅街の細い通りにアカマツの古木が立っていた。面白いと思ったのは、細い通りの半分を占めるようにアカマツが立ち、通りを狭めていたことだ。車一台がようやく通ることができるほど狭いのだが、付近の住民は納得しているのだろう。説明板は下記のように説明されていた。

   

   ※ 帝国製麻琴似亜麻工場は、現在の麻生球場の当たりだったと伝えられています。

 「明治7年(1874年)当時ロシア公使・榎本武揚が開拓使長官黒田清隆にロシア産の亜麻種子を送ったのが、本道の亜麻栽培の始まりであったと言われている。
 明治20年(1887年)に後の帝国製麻株式会社となる亜麻会社が発足。現在の麻生町一帯の約8万坪(244,000平方メートル)の地に製線工場を建設し、同23年に操業を開始した。明治後期、亜麻事業は全盛期を迎え隆盛を続けたが、昭和20年代に入り原料のコスト高や化学繊維の進出などで、工場は閉鎖の運命を余儀なくされた。昭和32年(1957年)のことである。ここは、工場長宅があったところで、当時からのアカマツが残っている。工場は現在の麻生球状付近にあったと言われている。」

          

    ※ 当時の工場長宅の前にあったアカマツが伐採されずに残存していました。

    

    ※ そのアカマツは写真のように道路を遮るように立っていました。地域の人たちは不便なのではと思いますが、不便をしのいで歴史を護っているということなのかもしれません。

〔住 所〕 北区麻生町3丁目 

〔訪問日〕 6月6日

※ 八十八選巡りもちょうど半分の44ヵ所を終えた。どうやら今年中には終えることができそうである。



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